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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

「秋徳湊の戦い」古戦場跡(亀徳/徳之島町)

亀徳港そばの道路わきに「秋徳湊の戦い」の案内板が建っています。建物の前にありますが、ほとんど目立たなくて油断していると見逃してしまいそうです。

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他に関係する史跡があるわけでもなさそうなので、ちょっと長いですがそのまま書き写します。

「秋徳湊の戦い」古戦場跡
この海岸一帯は今でこそコンクリートで覆われていますが、もとはアキチュ浜(東側はカネイク浜)と呼ばれ、ハマオリ(稲の収穫祭)などが行われるのどかな砂浜でした。
ここには、徳之島の歴史上最大ともいえる「秋徳湊の戦い」の史実が刻みこまれています。慶長14年(1609)の事でした。薩摩藩は、琉球王国を従属させることを目的に軍船75隻と兵士3000人の軍団をもって、旧暦3月4日山川港を出港しました。
またたくまに奄美大島各地を平定すると3月20日の早朝には軍旗をなびかせながら秋徳湊(現在の亀徳港)に入ってきました。
事前にこのことを知っていた琉球王国側も、これに備えて防衛団をつくって待ち構えていたため、敵味方入り乱れての接岸戦となり、多数の戦死者が出たと記されています。
徳之島に残されている旧記「三家録由緒記」によると、東之主(第三代島主)の息子で掟役(村主)だった佐武良兼と弟思呉良兼の兄弟が人々を指揮して先頭に立って奮戦しましたが、薩摩郡の鉄砲の直撃弾を受けて戦死し、ついに徳之島は降伏したと記されています。
この「薩摩藩琉球侵攻」以降、徳之島は他の奄美の島々と共に琉球王国から切り離され、薩摩藩の支配下へと移ることになりました。今から四百年ほど前の事です。
平成22年(2010)7月
徳之島町教育委員会


碑のある辺りを亀津側から写しています。フェリーが発着するのは新港の方で、こちらは小さな船が停泊しているだけです。

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古戦場跡の案内板があるのは、中央の白い建物のそばです。残念ながら、あまり「古戦場」という雰囲気はありません。

 

『大奄美史』(昇曙夢)にも、薩摩軍の琉球侵攻の際の徳之島での戦いについて詳しく書いています。

そもそも薩摩側の言い分では、この琉球進攻の直接の原因は、琉球が島津氏から銀子250貫目を借りたのだが、この返済を怠って再三の催促も聞き入れず、使者に対しても非礼があったのが直接の原因ということだそうです。さらに、琉球は古くか薩州付庸の地であったにもかかわらず、明に入貢して中国の柵封を受け、室町末期には日本国内の騒乱に乗じて礼を失するようになったとのことです。もっともこれらは薩摩側の一方的な言い分であり、本音は琉球を介して、対中貿易の利益を独占するのが目的でした。

さて、薩摩軍が鉄砲を打ちかけながら上陸してくるのに対し、掟役佐武良金は弟の思呉良佐金と共に、島民を指揮して弓矢などの狩りの道具をはじめ、竹槍・天秤棒・山鍬・大斧・鉈・包丁を棒の先に括り付けたものなどあらゆる武器をもって戦ったそうです。敵をおびき寄せての接近戦ではそれなりに善戦したのですが、鉄砲の一斉射撃にあって兄弟は戦死、大将を失った島民は敗走してしまいます。
島民の戦死者多く、海岸は死屍累々として目も当られなかったといいます。「いったいに徳之島の人は勇猛果敢、反抗心に富み、・・」などとあり、奄美各地の戦闘のなかでも最も激しい戦いだったようです。

薩摩勢は翌21日には沖永良部島に攻め下ったといいますから、1日だけの戦闘だったようです。熾烈な戦国時代を生き抜いて戦慣れした薩摩の軍勢と、ほとんど戦いの経験のない島民では、勝負にはならなかったのでしょう。

 

ちなみに、秋徳は亀徳の元の地名で、明治22年の行政区域変更の際に郡内に同名の村名(現在の瀬戸内町の秋徳)があるため、亀徳に変更されたそうです。(『天城町誌』)