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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

疎開船武州丸の慰霊碑(亀徳/徳之島町)

なごみの岬公園には、富山丸慰霊塔の向かい側にもう1つの慰霊碑が建っています。

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疎開船武州丸遭難者の慰霊碑です。

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裏に碑文があります。

大東亜戦争の激化に伴い、徳之島守備の高田部隊の要請により鹿児島県知事は徳之島の老幼婦女学童を本土へ疎開せしめんとて古仁屋に集結させ亀徳95名、井之川25名、山25名、尾母3名を輸送船武州丸にて送り出す。
大島郡十島村中之島沖を航行中の武州丸は昭和19年(1944年)9月25日敵の魚雷攻撃を受け疎開者148名は船と運命を共にして水漬く屍となる。嗚呼悼しきかな。
時あたかも三十三回忌にあたり、ここに碑を建て死没者名簿を鎮めて永く慰霊の誠を捧げる。
昭和51年(1976年)9月25日
武州丸遭難者慰霊委員会

 

徳之島住民の本土疎開計画が発表されたのは昭和19年7月、敗色が濃くなって南島地域が主戦場になるのを見越してのことです。住民の安全の為という見方もできますが、実態は足手まといにならないようにいうことで、殆ど強制的なものでした。駐屯する軍の食糧確保という意味合いもあったようです。
9月25日朝、徳之島の各港から集結させられた疎開者154人を乗せて、武州丸は古仁屋港を離れました。のろのろ運転でトカラ列島の中之島沖にさしかかったところで、午後9時2分、米潜水艦の魚雷攻撃を受けました。魚雷は2発命中し、疎開者は海に投げ出されて、救助されたのはわずか6人、その内2人も収容先の病院で亡くなりました。犠牲者の約半数は15歳未満の幼児学童でした。

武州丸は日之出汽船に所属する貨物船で、南方に軍需物資を運んでいました。疎開者を乗せる前にも、石垣島沖で潜水艦の攻撃をかろうじて逃れ、古仁屋港に着いたばかりでした。敵潜水艦から見れば軍事目的の船と区別はつきませんから、この時期に船で疎開するのは極めて危険な状況でした。

昭和19年8月22日には、沖縄から本土に疎開する学童ら1788人を乗せた対馬丸が、やはりトカラ列島の悪石島付近で潜水艦の魚雷を受けて沈没、学童780人を含む1485人が犠牲になっています。


武州丸の慰霊碑は、広い敷地に建つ富山丸の慰霊塔に比べると、かなりこじんまりとした印象です。

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『徳之島町誌』(昭和45年発行)には、富山丸の沈没や宮古丸、富士丸、加茂丸の遭難のことなどが出てきますが、何故か武州丸の名は出てきません。富山丸などに比べると犠牲者は少ないかも知れませんが、島にとっては数の大小では語れない悲惨なできごとだったと思うのですが、・・

 

富山丸・武州丸慰霊碑は二番拝所になっています。

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拝所の番号が段々若くなっています。お遍路だと「逆打ち」状態です。