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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

富山丸慰霊搭(亀徳/徳之島町)

亀徳港の湾外になごみの岬公園があり、海を背にして富山丸の慰霊搭が建っています。

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脇に碑文があります。

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昭和十九年六月二十九日早朝この丘の後方二粁の海上にて戦没せる輸送船富山丸の陸軍将兵並びに乗組員参千七百四柱の霊を慰めむ。そしてこの碑を建つ。

 

碑までの通路(参道に当る)の両側のなごみの碑に、犠牲者の氏名がびっしりと並んでいます。

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 軍用船富山丸は、米軍の沖縄上陸に備えて兵士を沖縄に送るために、大島海峡で船団を結成し、独立混成第44旅団、第45旅団の将兵4000人以上を乗せて、古仁屋を出航しました。間もなく米国潜水艦に発見され、追尾を振り切ることが出来ず、昭和19年6月29日午前7時過ぎに、亀徳沖3kmの地点で3発の魚雷を受けて沈没しました、海に流れ出た重油に火がついて、火焔地獄の様相を呈したそうです。

徳之島町あげて救助活動が行われ、負傷者は陸軍病院のある古仁屋にも送られました。
※参照(過去記事)輸送船富山丸の供養塔(古仁屋) - 「大奄美史」紀行

 

旅団は、昭和19年3月に編成されたばかりの第32軍(沖縄守備軍)の配下で、第32軍は大本営から早期の飛行場造成を指令されてしましたが、主力の多くを失って設営は大きく遅れたそうです。

 

慰霊塔があるのは太平洋を望む丘の上です。

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沈没したのがどの方角なのか分かりませんが、3km沖といえばほとんど目と鼻の先です。昭和19年6月の時点でそんな近くまで敵の潜水艦が入ってきていたんですね。現在の光景からは想像もつきません。

 

碑に嵌めこまれた富山丸の船影です。

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1915年6月三菱長崎造船所で建造された貨物船。
長さ134.64米、幅17.68米、総トン数7386トン、最高速度14.5ノット。
欧州航路に就航していたが、1943年陸軍に徴用され陸軍輸送船仕様に改造される。

船倉は上下3段に区切られ、兵隊は1坪当たり11人の割合で詰め込まれていたそうです。

3700名という死者の数は戦艦大和の戦死者を上回っています。特攻出撃して戦死した大和の将兵達とは、また違った意味での無念さや悲惨さがあるように思います。