「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

西郷南洲顕彰碑(岡前西郷公園/天城町)

西郷隆盛謫居跡のすぐ先にあるのが岡前西郷公園。大きな公園で、10000㎡あるそうですが。人の気配はありません。

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ここは十二番拝所です。

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公園内に小山のような塚があります。

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一番高いところに西郷南洲顕彰碑があり、平成6年9月の建立です。

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古い資料を見ると、草原の中に角柱型の碑が建っている写真が載っていますが、それはどこに行ったのでしょう。新しい立派な碑を建てるのもいいですが、古いのも(できれば)残してほしいものですね。「いつ誰がどんなのを建ててそれがどう扱われてきたか」というのも、古ければ古いほど、遺産としての価値があるように思います。

 

周囲にはいろいろな碑が建っています。

これは岡前での生活を五言絶句で表したもので、直筆の書が岡本氏(琉家子孫)宅に保管されているそうです。西郷はこの詩で初めて「南洲」の号を用いたといいます。

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永日飛鶴を愛し
春水四澤に満つ
(のどかな春の日に一日中飛んでいる鶴を見ているととてもかわいい。それに春の暖かい水が池や水草の生えているところなどに満ち満ちているようでとてものどかな景色で自分の気持ちもなごやかである)

達観したような雰囲気ですね。龍郷にいたときは一日千秋の思いで召喚を待っていましたが、今回は「自分でやるだけのことはやった」という諦めに似た安心感があって気分も落ち着いていたといいます。

西郷は、遠島以来70日が過ぎてその後の沙汰が何もないことから、当分は徳之島に留まることになると考え、龍郷から愛加那と2人の子供(菊次郎、菊草)を呼び寄せ、再会を果たしました。ところがその直後に久光からの命令書が届きます。沖永良部島への遠島と入牢、おまけに護送のときも必ず舟牢に入れよという念の入りようで、久光の怒りが解けていないことが分かります。

西郷は愛加那達と分かれて井之川村に出立、井之川から沖永良部島に護送されていきます。

 

これは琉仲為の子、徳嶋仲祐の墓です。

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仲祐は西郷が沖永良部島に遠島される時にも付き添っていきます。西郷は赦免後に仲祐を呼び寄せ、家来として士分にとり立てます。仲祐の願いで京都に連れて行きますが、慶応2年(1866)12月に21歳で病死しています。仲祐は大男だったそうで西郷の身代りになって討たれたという説もあるそうです。

幕末の倒幕運動に参加した、ただ一人の奄美人です。

 

この公園は小高い丘陵地にあって、畑の向こうに広大な海原を望むことができます。天気が悪いのが残念ですが、西郷さんもこういう景色を見て過ごしていたのでしょう。

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この後、謫居跡にあった案内地図を見て、岡前アツカイ役所跡というのに行ってみました。
だだっ広い草地があるだけですが、道路角に教育委員会の案内板があります。

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「噯(あつかい)」というのは珍しい字ですね。老眼では曖昧(あいまい)の「曖」と区別がつきません。環境依存文字だそうなので、以降カナ書きにします。

アツカイというのは薩摩藩時代の行政区画の呼び方です。徳之島には3間切(東間切、面縄間切、西目間切)あって、西目間切が現在の天城町とほぼ重なっているようです。アツカイはその下の単位で、西目間切には岡前アツカイと兼久アツカイの2区分がありました。

奄美大島では間切を方「かた」に分けていて、それに相当するものだと思いますが、同じように薩藩支配下にあって呼び方がなぜ違うのかよく分かっていないそうです。

琉仲為の横目という役は、今でいえば役場の助役という感じだと思います。

 

琉仲為屋敷跡があるという辺りも通ってみましたが、それらしいものは見つかりません。外を歩く人もなく、雨も降っていて探すのは諦めることにしました。

※参考『天城町誌』など