「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

特攻平和慰霊碑(浅間/天城町)

浅間陸軍飛行場跡の案内板から平和通り(滑走路跡)の直線道路を北上した終点にあるのが特攻平和慰霊碑。石灯籠の先に大きな石碑が建っています。

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昭和50年6月の建立とあります。

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碑文には次のように書かれています。
特攻平和慰霊碑の由来
この地は、旧陸軍飛行場の跡であり、さらに太平洋戦争における本土防衛最後の砦として、沖縄決戦に出征する紅顔可憐な特別攻撃隊の中継基地となり数多くの若き勇士が、莞爾として翼をつらね、暗雲急を告げる南の空へ飛び立ち、逝いて帰らざることとなりし思い出深きところである。
これら丈夫の、至情至純に満ち溢れし精神を顕彰し、悠久空しく散華せる御霊の、とこしえに安らかにあられんことを請い願い、以って祖国日本の永遠の平和と発展を望むは、まさに国民の総意といえよう。
天城町ではこのゆかりも深き、旧飛行場跡に、御遺族有志の願望に答えるべく、内外からの浄財により、特攻平和慰霊碑を建立して、御霊を後世に永く伝え、併せて日本民族の平和と隆盛を祈念するため、いささか由来を述べ碑文とする。
昭和50年8月15日

こういう犠牲があったことを日本人として忘れたくないものです。

日本軍の航空機による特攻は昭和19年10月、フィリピンのルソン島で神風(しんぷう)特別攻撃隊が誕生したことに始まります。10月21日最初の特攻隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)が出撃し、以後続々と特攻隊が編成されアメリカ軍の艦隊めがけて体当たり攻撃を行いました。フィリピンでの特攻は翌年1月13日まで2か月半続きました。

昭和20年3月26日アメリカ軍は沖縄の慶良間諸島に上陸を開始、沖縄戦の特攻作戦が始まります。 天一号作戦(陸海軍共同の沖縄方面航空作戦)が発動されて、海軍では菊水作戦、陸軍では航空総攻撃と呼ぶ作戦が展開されます。菊水1号作戦(第1次航空総攻撃)は4月6日~7日、戦艦大和の出撃もこの時です。陸軍では、知覧の他、万世、新田原、徳之島、喜界島、石垣などの飛行場から出撃しています。その後も特攻は繰り返し行われ、沖縄戦終結直前の6月22日(菊水10号)まで続きます。

徳之島からの出撃はどうだったのでしょうか。
『特別攻撃隊全史』(特別攻撃隊戦没者慰霊平和祈念協会/H20.8.15)から、徳之島から出撃して突入に成功したものを拾い出してみました。
3月29日 悪天候で不時着していた誠39飛行隊が発進、笹川大尉以下3名が突入
4月2日  第20振武隊長谷川大尉以下2名が沖縄西方海面の敵艦船軍に突入
4月7日  第44振武隊甲斐少尉以下2名沖縄周辺の敵艦船軍に突入(菊水1号)
4月10日 第30振武隊横尾伍長沖縄周辺の敵艦船軍に突入 (菊水2号)
4月23日 第105振武隊日下伍長沖縄周辺の敵艦船軍に突入(菊水4号)
4月29日 第77振武隊金子伍長沖縄周辺の敵艦船軍に突入

徳之島は沖縄に近く、前進基地として知覧や万世基地から進出した機をプールしておいて、作戦に合わせて出撃していたのでしょう。4月中旬以降はほとんど散発的になり、5月になると全く突入はなくなります。沖縄基地のアメリカ軍の制空範囲が拡大して、飛行場も頻繁に爆撃されるようになると、基地としての機能を果せなくなっていったようです。

 

ここには他にも忠魂碑などいくつかの碑が建っています。

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文字が読めず、何の碑か分かりません。

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案内板が入口にあります。

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副題にある「ロマンと情熱」というのはかなり違和感がありますね。こういう慰霊の地を語るのに相応しい言葉とは思えません。

 

石柱があって、
地福徳之島三十三聖地旧跡巡り
十三番拝所 特攻平和慰霊碑
とあります。

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徳之島町のHPにこの「地福之島三十三聖地旧跡巡り」の紹介があり、今回徳之島を廻る上で非常に参考になっています。必然的に、この後先々で、この石柱を何回も目にすることになります。