「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

浅間陸軍飛行場跡(浅間/天城町)

幹線道路から空港入口交差点を少し入ったところに「浅間陸軍飛行場(滑走路)跡」の案内があります。

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浅間陸軍飛行場(滑走路)跡
浅間陸軍飛行場は、昭和18年11月から着工し、軍民一体となり工事を進め翌19年3月には、長さ1500m・幅60mの滑走路を有する飛行場が完成。同年6月から毎日飛行機が離着陸するようになる。
昭和20年3月下旬から沖縄上陸を狙う米軍の艦載機の空襲が日増しに激しさを増してくる中で、攻撃の前線基地を万世基地(鹿児島)から浅間陸軍飛行場に移すことになる。
当時の浅間基地の戦力は、一般機21機・特攻機10機という記録が残っている。沖縄特攻の第一陣は、今田義基少尉など11機が出撃以来米軍による昼夜分かたずの攻撃で、飛行場としての機能を失い、幾多の若い兵士達の人命が犠牲になった飛行場の跡地である。その御霊に謹んで哀悼の意を表するために建立する。
平成19年3月
天城町教育員会

 

ここからまっすぐな道路が北の方に長く続いています。

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地図で見ると直線部分で1.2km以上あります。現在は平和通りというそうです。道路の幅は結構広くて10mくらいありそうですが、両側はほとんどさとうきび畑で、車もほとんど通ってなくて農道のような感じです。滑走路の一部がそのまま道路になっているようです。

 

飛行場建設には労務者提供命令が軍から出て、亀津町450人、伊仙町600人、東天城町430人、天城村800人の計2280人、島内の青年学校の生徒600人、さらに翌年には沖永良部島、与論島から350人、大島本島から650人が徴用され、総勢では4200人以上になったと言います。軍が提供した建設機材はトロッコやリヤカーなど僅かなもので、ほとんどクワ1本の人海作業だったそうです。

完成後間もない19年10月には初空襲があり、飛行場で17機、掩体壕で11機の飛行機が全焼しました。近隣住民は家を出て山中に逃げ込み、この時から仮小屋で終戦まで避難生活を続けたといいます。
※参考 『記憶の証人・かごしま戦争遺跡』(南日本新聞社)

 

飛行場建設に着手したのが昭和18年11月、完成したのが19年3月とあります。この前後の戦況がどうだったのかというと、

昭和18年4月 山本五十六連合艦隊司令長官戦死
昭和18年9月 イタリア降伏(ずいぶん早いですね)
昭和18年10月 明治神宮で学徒出陣壮行式
昭和19年6月 サイパン島陥落
昭和19年10月 レイテ沖海戦(武蔵沈没)

太平洋の戦局が厳しくなってきて、島伝いに本土に接近する米軍の進攻に備えていた時期のようです。

 

奄美大島(本島南部や加計呂麻島)は、明治期から防衛の要として位置づけられていて、軍の遺跡や記念碑なども明治、大正、昭和前期、大戦中と各時期のものが点在していて、時系列を頭に入れておかないとなかなか整理できないところがあるのですが、その点、徳之島はある意味で非常にシンプルで、ほとんど太平洋戦争の時期(それも後期)だけに集中しているようです。