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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

西郷南洲上陸地(湾屋/天城町)

空港から南下して西郷上陸の地へ。河口が湾のように広がっているところに公園があります。入口には特に案内はありませんが、中に入ると一番奥の方に記念碑があります。

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西郷南洲翁上陸記念碑と刻まれています。

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昭和38年に建てられたものです。土台部分が崩れてしまっているようです。

案内には
西郷南洲翁上陸地
文久二年(1862年)この湾屋港(藩指定の砂糖積出港)に二度目の遠島処分を受け上陸、追処分で沖永良部に行く迄の二か月半、岡前(謫居跡)に滞在した。
島妻愛カナや子供との別れの悲話や島民との心暖まる交流などの逸話、翁直筆の書・手紙、力石などが残るほか、謫居跡地には記念碑が建てられている。
とあります。

奄美大島に遠島になった西郷隆盛は文久2年(1862年)2月12日に赦免されて鹿児島に帰着していますが、わずか4か月後に今度は徳之島に流されました。その間に何があったのでしょうか。

西郷が鹿児島に戻った当時、藩論は勤王・佐幕で二派に分かれてまとまらず、すぐにでも上洛しようとする久光を止めようとする西郷の意見は聞きいれてもらえません。西郷は一旦は隠遁しようとしますが、大久保のとりなしもあって、久光の上洛に先発して九州の形勢を視察して下関で久光を待受けることになりました。ところが天下の形勢が急を要するとして、久光の到着を待たずに無断で大阪に向かってしまいました。これに久光が立腹したことが再度遠島になった直接の理由になりました。讒訴などもあったそうですが、おもそも意見が合わなかったようです、西郷が論争に興奮して「久光公は順聖公(斉彬)の足元にも寄りつけぬ」とけなした言葉が、久光の耳に入ってひどく機嫌をそこねていたと言いますから、お互いにあまり信頼関係がなかったのでしょう。

4月11日西郷は大阪から薩摩に護送され、山川で処分を待ったのち再度の遠島となり、6月10日に徳之島に上陸しました。

※参考『大奄美史』(昇曙夢)

 

公園があるのは、徳之島空港の滑走路南端のあたりでしょうか。南側は湾屋(わにや)川河口。徳之島西岸の中心的な湊であったと言います。

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龍郷町のように上陸地に「西郷松」のような史跡が残っているわけではありません。(西郷松も今は切り株だけですが)

碑文によると、
西郷は足軽二名に警護されて、文久二年(1863年)六月十日に上陸、この地の農家湾直進宅に入り1週間止宿、その後岡前アツカイ惣横目琉仲為のすすめをいれて六月十七日岡前の松田勝伝方に移った」とあります。西郷が徳之島で過ごしたのは93日間ですが、この辺りにいたのは最初の1週間だけだったようです。