「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

輸送船富山丸の供養塔(古仁屋)

古仁屋小学校の向い側の丘に登る坂道に「なごみ坂」という案内があります。

f:id:hn2784:20160119094345j:plain

登っていくと、丘の突端が少し広くなっていて、そこに富山丸の供養塔が建っています。

f:id:hn2784:20160119093421j:plain

この塔は昭和60年に建てられたものです。大島ではあまり見かけない特徴のある形をしています。

富山丸は太平洋戦争時の輸送船で、1944年(昭和19年)6月29日朝、沖縄守備に向かう4600名の将兵を載せて徳之島亀徳沖を南下中に、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。富山丸にはドラム缶1500本のガソリンが積載されていたため、引火して次々と爆発炎上して猛火は海を覆いました。火は海に逃れた将兵にも襲い掛かり、海上は阿鼻叫喚の地獄図絵となりました。戦死者は3700名以上だそうです。

左脇に碑文があります。

f:id:hn2784:20160119093807j:plain

これを読むと、徳之島で起こった戦災の慰霊碑がなぜ古仁屋にあるのかよく分かります。
かなり長いので一部を引用します。、
「この事態を望見せし古仁屋の町民は、直ちに舟を仕立てて救援に向ひ、やがて僚船や救援に赴いた船から運ばれた遺体と負傷者は数知れず古仁屋の町は大騒ぎになり、突然の出来事に古仁屋町は其のなすべき処置に迷ひ遺体はトンキヤンの海岸にて懇ろに荼毘に付し負傷者は取り敢えず聖域の森の下にある古仁屋高等女学校に収容して古仁屋国防婦人会は総出で負傷者の看護に当り医療品は欠乏し各部落に芭蕉の葉と豚の脂の供給を依頼し、シーツ代りに芭蕉の葉を板の間に並べて其の上に負傷者を寝かし皮膚の剥げたところに豚の脂を塗り懸命に看護に努めたが其の甲斐もなく無残な姿で次々に亡くなっていく将兵が憐れで居並ぶ者涕に咽んだのである」

太平洋戦争後半の制海権を失った日本の近海で輸送船が撃沈されるのは、当時は珍しいことではなかったと思いますが、それにしても3700名以上の犠牲者というのは、他にあまり例がないのではないでしょうか。

比較にはならないかも知れませんが、映画などでも有名なタイタニック号沈没による死者が1522名、日本では昭和29年の洞爺丸台風で沈没した洞爺丸など青函連絡船5隻の死者が1430名と言いますから、それらに比べても大変な数の犠牲者です。

 

慰霊搭のある丘からは、古仁屋の街並みと大島海峡が見通せます。

f:id:hn2784:20160119093626j:plain