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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

安徳天皇を祀る赤間神宮(下関)

前回に続いて下関からです。

赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで入水した悲劇の幼帝安徳天皇を祀る神社です。境内には平家一門を供養する墓碑も建っています。

入口には、白壁に鮮やかな朱塗りの水天門があります。

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普通の神社だとこの位置に鳥居が建っていたりしますが、ちょっと雰囲気が違います。

これは竜宮城を模して造られているそうです。二位の尼の「今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは」という辞世が壇ノ浦古戦場跡にもありましたが、この「波の下の都」をイメージしているのでしょう。

 

水天門という名前から、安産の神様として有名な水天宮との関わりが気になるのでネットで調べてみました。

全国の水天宮の総本宮は久留米水天宮で、安徳天皇を祀るために久留米藩の2代目藩主有馬忠頼によって創建されたそうです。その後、藩主が参勤交代で江戸詰めをしているときにもお参りができるようにと、江戸屋敷内の殿様の屋敷神として祀られたのが東京の水天宮の始まりであり、現在の日本橋の水天宮は明治になってから移転したものだとのことでした。

 

水天門の前から関門海峡を見下ろすことができます。

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この海を安徳天皇を乗せた平家の船団が、最後の決戦に向けて通って行ったのでしょう。500艘と言いますから、見物している人がいればさぞ壮観だったに違いありません。幼い天皇や女官たちまで連れて戦闘に行くというのは、どういう考えだったのでしょうか。


境内の中に入ります。何となく想像していたのよりは、ずっと立派な神社でした。

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参拝者も多いです。

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入水した安徳天皇の遺体は当時この場所にあった阿弥陀寺に埋葬されていましたが、明治の初めの神仏分離により天皇社赤間宮となり、昭和15年には官幣大社となって現在の赤間神宮と改称されました。

毎年安徳天皇の命日に合わせて5月2日から3日間、先帝祭という大規模な祭礼が催されているそうです。安徳天皇の御霊を慰めるために遊女に身を落とした平家の官女が御陵に参拝したという故事にちなむ祭りです。

YouTubeで上臈参拝の動画など見てみましたが、雅やかなものですね。

 

ところで、安徳天皇について『大奄美史』(昇曙夢)には、

国史によれば壇の浦の戦いに、安徳天皇は八歳の時二位の尼に抱かれて海に入り、そのまま崩御され、平氏の一族郎党またほとんど戦死したとなっている。しかるに薩南硫黄島の旧記三所大権現鎮座本記によれば、天皇は諸臣とともに薩摩の硫黄島に遁れ給い、ここで聖寿を完うせられたことになっている。その真偽は別として事の仔細を述べると、・・・・・

との書き出しで、壇の浦以降の顛末を詳細に記述して、最後は

島々から献納する糧米によってあじけなき世を永らえ給うたが、寛元元年(1242年)五月五日の夜、六十六歳歳を以ってはかなくも崩御あそばされた

とあります。

また、「この詳細なる由来記はこれを実際の遺跡に徴しても、その真実なることがわかる」と書いていますが、上の文章の書き出しのところでは「その真偽は別として・・」などともありますから、本当のところ昇曙夢氏は史実としてどう考えていたのか、よく分かりません。

 

境内には、平家鎮魂の七盛塚がありますが、それは次回に。