「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

壇ノ浦古戦場跡(下関市・みもすそ川公園)

今回は奄美大島を遠く離れた関門海峡からです。場所は離れていますが、奄美に伝わる平家伝説を通じて間接的には大きな関係があります。

平家の武将が奄美大島まで落ちのびてくる物語の発端は、「壇ノ浦の戦いに敗れた平家の一党は、安徳天皇を奉じて夜陰に紛れて壇ノ浦を脱出、源氏の追討を逃れて南走し・・・」というところから始まります。そういうわけで平家落人伝承の起点とも言うべき壇の浦古戦場跡を訪ねました。

 

関門海峡が一番狭くなったところ、国道(山陽道)と海岸との間の細長い緑地が「みもすそ川公園」という公園になっています。

御裾川橋と書かれた小さな橋を渡っていきます。現在も川が流れているのかどうか地表からは分かりません。

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公園内には碑がいくつも建っています。これは「壇の浦古戦場跡」の碑です。

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安徳天皇縁起絵図が貼り込まれていて、右が「壇の浦合戦」、左が「安徳天皇御入水」の絵図です。
後に見えているのは、関門橋(関門自動車道)です。海底には国道トンネルも通っています。

源義経と平知盛が対峙する像が建っています。これは平知盛像で碇を担いだ姿です。

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こちらは義経像。有名な八艘跳びの場面のようですね。

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その右側にあるのが「安徳天皇入水之処」の碑で、安徳天皇を抱いて入水した二位尼の辞世が書かれています。

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今ぞ知る
 みもすそ川の
御ながれ
 波の下にも
みやこありとは

 

国道側の公園入口にあるのが、「御裾川碑」。

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明治三十五年五月建立とあるので、公園内の建造物ではこれが一番古いようです。

 

ベンチに座っていると、眼の前でボランティアの方の紙芝居が開演されました。

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壇の浦合戦の模様を鐘太鼓付きで熱演してくれました。絵は10枚ほどですが、昭和の香りのする昔なつかしい街頭紙芝居の絵柄です。終わると万雷の拍手?(聴衆4,5人)が沸き起こりました。

 

敗走する平家が九州への退路を絶たれて、追撃してくる義経の軍勢に最後の戦いを挑んだのがこの壇ノ浦です。

文治元年(1185)、海峡西側の彦島に陣を構えた平家と、東側から進撃してくる義経率いる源氏の水軍が壇ノ浦で激突しました。戦闘開始は3月25日正午ごろ、最初は義経側が外海から内海に流れ込む潮流に押されて平家優勢でしたが、やがて潮の流れが変わって平家が追い詰められて劣勢になりました。不利になった義経側が敵船の非戦闘員である水手・梶取を射るという、当時の戦では掟破りの戦法をとったとも言われています。

平家軍は壊滅状態になり、最後を覚悟した二位の局(清盛の妻)は、三種の神器を携え、安徳天皇(8歳)を抱いて海に沈みます。平家の武将たちも鎧を付けたまま次々と飛び込んで、海に消えていきました。

 

ちなみに、奄美大島の平家伝説の主要登場人物である平家の三武将(資盛、有盛、行盛)もこの時、鎧の上に舟の碇を背負ってともに腕を組んで沈んでいったことになっています。

 

海岸まで行ってみると潮の流れが速いのに驚きました。

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海というよりは大雨で増水したときの川の流れのようです。瀬戸内海と日本海がこの狭い水路のような海峡だけで繋がっているのだということですね。
潮の流れが合戦にどう影響したのか詳しいことは分かりませんが、川の上流側と下流側と考えればどちらが有利か容易に想像できます。