「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

赤木名観音堂跡(名瀬永田墓地)

永田墓地に赤木名観音堂跡があるというので行ってみる。大島支所の橋の手前から入って行くが、墓地は広大でずっと奥の方まで続いていてどの辺にあるのか見当がつかない。管理人事務所(民家)の庭先にいる人に尋ねてみると、一旦家の中に入りしばらくして鎌を持って出てこられる。

墓石の間を通り抜けて丘の上に案内してもらう。草むらの中に碑が建っている。

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雑草が茂っているが幸いにも鎌を使うほどのこともなく近くまで行ける。

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八月踊歌に残る赤木名観音堂跡
寛政十三年春(1801年)赤木名から名瀬に仮屋(代官所)が移されたが、観音堂の移転には、赤木名住民の反対にあい何回かの交渉を重ねて、やっとのことで、十九年目の文政二年に、この地に移り、明治二年の神仏分離令以降暫時まで観音堂が置かれていた場所である。八月歌にある歌詞の一節に「赤木名観音堂や伊都部からなおろなおろ、なぁ音ばかり」という文句はこのことからでている。
社団法人奄美大島青年会議所

 

観音堂にまつわる史跡を訪ねるのはこれが3カ所目。
※参照(過去記事)赤木名観音堂の碑 - 「大奄美史」紀行

※参照(過去記事)龍王神社/観音堂 (大熊) - 「大奄美史」紀行


薩摩藩の仮屋(代官所)は、名瀬大熊から始まって赤木名~大熊の間で移転を繰り返し、寛政十三年(1801)に伊都部に移されている。薩摩の役人の信仰対象であった観音寺も大熊~赤木名を経て文政二年(1819)この地に移されるが、明治になって廃仏毀釈により破壊されてしまう。

附近に墓石などがあるが、1つを読んでみると「明治三拾七年・・・」などと書かれていて、観音寺とは関係ないようだ。

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史跡とはいっても、ここに大きなお寺があったことを窺わせるようなものが何か残っているわけではなく、案内板1つしかないのは残念である。

 

ここは細長く突き出たような丘になっていて、墓地の反対側はすぐ下が住宅街(高千穂神社の近く?)になっている。

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