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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

干拓地跡に残るトンネル「とおしめ」 (浦)

以前に田畑佐文仁の業績を讃える「たぶくろの碑」が建っているとおしめ公園のことを書いたが、肝心の当時の「とおしめ」の跡が残っているのを見逃していた。

※参照(過去記事)たぶくろの碑と浦の橋立 (浦) - 「大奄美史」紀行

 

今回そばを通ったので、あらためて探してみた。とおしめ公園の方から、干拓地跡と海をつなぐ水路が国道(堤防)の下にあるのが見えるが、まさかこれではないだろう。これは現在の「とおしめ(通し穴)」か。

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上の写真に写っているすぐ左側、交差点そばの国道向い側の小さな丘の前に「とおしめ」と書いた碑が建っているのを見つける。

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木陰に隠れるような感じでひっそりと建っている。ほとんど目立たなくて、何回もこの前を通っているが今迄全く気が付かなかった。

道路を渡って碑文を読んでみる。
とおしめの由来
奄美では通し穴を「とおしめ」とよぶ。古い民謡で「真浦のとおしめ」と歌ったのはこのトンネルのことである。およそ二百五十年前、島の開拓の祖田畑佐文仁翁はこの上手に新田をつくるため、堤防を築き海水の出入りを調整するとおしめを掘った。難工事だったが多くの人々の力を結集して貫かれた。小山の上には鎮護を祈って弁財天が祭られたという。
昭和四十四年十一月十五日

 

すぐ右側の道路との狭い隙間から覗き込むと丘に掘られた隧道の入り口が見える。

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こちらは国道の少し先から反対側の入り口を見たところ。

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とおしめそのものは(現代の感覚では)そんなに大規模なものには見えない。道路の外側に取り残されたような小さな丘(テリヤと呼ぶらしい)は、国道ができたときにわざと保存したのだろうか。元の地形を知らないので、とおしめ全体が残っているのか一部だけ残っているのかもよく分からない。

佐文仁の多くの開墾工事の中でも、この浦集落の干拓はとりわけ難工事であったという。堤防が決壊してうまくいかず、1人の人夫が「人柱でも埋めなければ・・」といったところ、その本人が選ばれて人柱になったという悲話も残っている。