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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

奄美の神社(2) 高千穂神社

『大奄美史』(昇曙夢)には、奄美大島の神社についてほとんど書かれていない。神社というのは本土ではありふれたものだから、奄美大島史を語るうえで大して意味のないものと考えたのだろうか。社名が(多分)唯一出てくるのが高千穂神社で、廃仏棄釈に関連して、「明治二年(1869年)には島内に高千穂神社を各方限に一社ずつ計十三社建立して神社崇拝を強調した」とある。

神道国教化のために神仏習合を禁止する神仏分離令が出されたのが慶応四年(明治元年)、薩摩藩では他藩以上に徹底的に廃仏棄釈が行われたという。それにしても早くも明治二年に一斉に高千穂神社建立というのは随分迅速な動きである。

当ブログでも随時各地の高千穂神社を取り上げてきたが、今回はこのとき建立されたと思われる高千穂神社13社についてまとめて書いてみたい。

「各方限に1社ずつ十三社建立・・」とあるが、この時期奄美大島の行政組織は以下の13の方からなっていた。
笠利方、赤木名方(笠利間切)
古見方、瀬名方(古見間切)
龍郷方、名瀬方(名瀬間切 )
大和浜方、宇検方(焼内間切)
住用方(住用間切)
西方、実久方(西方間切 )
東方、渡連方(東方間切)


☆笠利間切、古見間切、龍郷方(名瀬間切)にあった5社
名瀬以北には高千穂神社は1社も見当たらない。名瀬・高千穂神社の由来には、明治二十年頃、「近隣の高千穂神社五社(赤木名方外金久・笠利方手花部・瀬名方浦・龍郷方龍郷・古見方小湊)及び八幡神社を合祀した」とあるから現存していないようである。


☆名瀬間切・名瀬方 (名瀬井根町)高千穂神社

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神社由緒には「明治二年六月に金久・矢之脇に村社として創建され、明治二十年頃現在の井根に遷座され、近隣の高千穂神社五社及び八幡神社を合祀した。」とある。

 

☆焼内間切・大和浜方 (大和村恩勝)高千穂神社

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由緒には「明治二年六月十九日に思勝村尾神山の麓に村社として創建された」とある。

 

☆焼内間切 ・宇検方  (宇検村宇検)高千穂神社

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創建年代などは不詳。

 

☆西間切 ・西方  (瀬戸内町久慈)高千穂神社

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由緒には「創建は明治以前であるが詳しいことは不明」とある。
御祭神は、伊邪那岐(イザナギ)大神、伊邪那岐(イザナミ)大神とある。他の高千穂神社とは異なり、霧島神宮の主祭神である瓊瓊杵尊(ニニギニミコト)を祭神としていない。
 

☆西間切 ・実久方 (瀬戸内町瀬武)高千穂神社

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由緒には「明治二年6月旧藩知事の命により勧請、同年六月十九日鎮座・・」とある。

藩政期には、現在の瀬戸内町地域は本島と加計呂麻島にまたがって複雑に行政区分が入り組んでいる。瀬武は藩政期には久慈と同じ西方であったが、明治初めに整理されて実久方に属するようになった。


☆東間切 ・東方 (瀬戸内町古仁屋)高千穂神社

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由緒には「創建年代は不詳であるが・・・明治二年現在地に社殿を造営遷座した」とある

 

☆住用間切 ・住用方  (奄美市住用町山間)高千穂神社

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神社庁HPに記載がなく、境内案内もないので由緒が不明。

 

☆不明(東間切渡連方)
渡連方にあたる地域には高千穂神社という名前の神社は見当たらない。

『奄美加計呂麻島のノロ祭祀』(松原武実)には、秋徳集落入口にある神社が「ムラ人は高千穂神社というが、社殿には五穀護神社とある。創建のいきさつなどについては聞くことができない」とある。

以前通りがかったときに道路わきに鳥居があるのを見たが、荒れ果てていて中に踏み込むことができそうにもなかった。

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他の高千穂神社は戸長役場があるなど、地域の中心地に建てられているから、これは立地からみてもちょっと違うような気がする。

※『瀬戸内町誌(民俗編)』によると、秋徳の高千穂神社は昭和13~14年に建てられたもので、戦争中は出征兵士の武運長久を祈願するところだったという。(2016/1/8追記)

 

 

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