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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

究極の限界集落を囲む玉石垣 (青久)

市から嘉徳方面に向かう峠道の途中から、青久の方へ降りる道がある。道路案内には「むちゃかなの碑 3.0km」と書いてある。以前にもここまでは来たことがあるのだが、降雨が続いた後だったせいかあまりの悪路に途中で引き返してしまった。今回は思い切ってウオーキングを兼ねて徒歩で行くことにした。

青久集落には、前は1世帯の老夫婦が暮らしていたが、今はおばあさんが1人で住んでいるというのをテレビで放送していた。超限界集落というのか、あるいは既に集落というくくりには入らないのか、とにかく一度は訪れてみたい場所である。

道路を降りていくが、予想外に路面は修復されたようでほとんど傷んでいない。これなら車でも大丈夫そうだが今さら引き返す気にもなれない。やがて樹木の間から海が見えてくる。

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30分以上かかって麓まで降りると、「むちゃかなの碑」と書いた案内。

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すぐに海岸に出る。まず目につくのが集落の外側をぐるりと取り囲んでいる石垣である。

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近くに寄ってみる。これは東側角の開口部附近。それにしてもこの石垣、相当高くて大きい。

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この石垣は防波壁で、高さ2.5~2.8m、底部の幅3.6~3.7m、上面の幅1.6~1.8mだという。
海岸部分を底辺にしたU字型で、全長が何と278mにもなる長大なものだ。360度とは言えないが、背後の山側を除いた部分はすべて壁で囲まれているといってよい。まるで城壁のようでもある。

石垣の上には「一九五〇年」と書いた碑が建っていて、これは着工の年を表してある。

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青久は浜がお椀の形になっていて、高潮になると波が集落中心部の民家の庭先まで侵入し、農作物も被害を受けていた。アダンの木を植えたりして高潮対策をしていたが、何回も高潮に流されてしまっていた。

昭和23年、集落で防波壁の構築を願い出ることを決議、区長から村長、村長から琉球政府に申し出て琉球政府直轄の事業として実施することになった。

昭和25年~30年の会計年度別に6期に分けて順次防波壁を完成させた。主に地元と市集落の住民が作業に当たったという。材料はハマで採取した石や砂利、砂である。大きい石はカディラ(かずら)で編んだカゴに入れて2人1組で担ぎ棒で運び、砂利や砂は板で作ったハク(箱)で運搬した。大石を防波壁の中心に据えて、周りに中小の石を積んで業者がセメントで接着した。

昭和28年の本土復帰後は本土政府の直轄事業となった。
※参考『わきゃシマぬあゆみ』(住用村誌編集委員会)

 

こちらは海岸側の石垣。

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積み上げられた石を見るといろいろな形や大きさのものが混じっているのが分かる。他の集落にある現在の堤防と比べると手作り感がよく表れている。

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石垣の内部は広々とした空地になっているが、かつては何軒もの民家が建ち並んで、道路や畑などがこの中にあったのだろう。今は隅の方に1軒の家とその周りに畑があるだけ。石がころがっている場所には角型の石柱なども混じっていてここは墓地だったのだろうと思われる。

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隅の方に畑と民家。

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ヤギさんがきょとんとこちらを見ている。久しぶりに外から来た人間を見たのかも知れない。

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住用村でよく見るスタイルの「クぃンムン村」が建てた案内板。青久玉石垣の由来を書いている。

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アメリカ統治時代から日本復帰後に引き継がれた記念すべき事業で、今に景観を残す文化遺産でもある。