「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

仏像墓 (龍郷)

龍郷集落手前から山裾の道路に入る。要所要所に矢印の案内があって迷うことがないので助かる。

f:id:hn2784:20150128150512j:plain

仏像墓への参道の入り口に教育委員会の案内板が建っている。

f:id:hn2784:20150128145345j:plain

町指定文化財(建造物)
仏像墓
 指定年月日 昭和54年12月20日
 所在地 龍郷
 所有者 新垣常二
等身大の地蔵を刻してある墓石と破風式の墓石、破風型の屋根の部分が崩壊している墓石は、いずれも1725年代のものである。
石質は加冶木石と目されるが、当時これだけの彫刻を施した墓石は本町には見当たらない。
等身大の地蔵の円柱石には、天嶺常興居士、横面に大島名瀬間切瀬師子村笠利与與人道覚行年六九歳、享保十乙巳歳七月八日と刻してある。また、隣の破風型の墓石の中央には柳屋永春大姉と刻され、いずれも笠利家十代頃の由緒ある人々の墓と考察される。

 

100メートルくらい進むと、広い敷地内の一番奥に墓がある。きれいに整地されている。草茫々になっているという話を前に聞いたことがあり、近くまで行けないのではないかと危惧していたのだが、これは意外であった。

f:id:hn2784:20150128145534j:plain

それにしても墓の部分に比べて周囲が広すぎる気がする。『龍郷町誌民俗編』によるとここは「ニンギョバテ」と呼ばれていて、人形型の等身大の仏像が祭られていることに由来するという。「正方形に近い2畝くらいのミカン畑の中にあり、墓地はホウライチクの生垣に囲まれていた」とあり、確かにそれくらいの広さ(約200㎡)はありそうだ。

 

これが墓石群の全貌。今から300年近く前のものだ。

f:id:hn2784:20150128145551j:plain

 

囲いの中には等身大の仏像の形をした墓と破風型の墓石がある。

f:id:hn2784:20150128145814j:plain

右側の仏像下の円柱石の字がかろうじて読み取れる。名瀬間切瀬師子村笠利与與人道覚のものである。瀬師子村というのは現在の龍郷町龍郷のことである。

f:id:hn2784:20150128145903j:plain

左の破風型の墓石は屋根がちょっとめくれているように見える。円形の窓の中の字が読み取りにくいが、先ほどの案内によると柳屋永春大姉とあるらしい。

 

囲いの外にも2基ある。この2つは案内板に説明がない。

f:id:hn2784:20150128145733j:plain

右側の破風型の墓石は屋根や上部がかなり傷んでいる。特に文字は読み取れない。

左側は石灯籠に様な形をしているが、これも墓石なのだろうか。
素生名瀬間切瀬師子村能・・」まで読み取れる。

f:id:hn2784:20150128145651j:plain

 

仏像の形をした墓を見たのはここが初めてである。(そもそも仏像自体が大島では珍しい)