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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

第十七震洋隊基地跡(三浦)

加計呂麻の戦跡調査の方々の一行に同行させてもらう機会があり、島内何カ所かの戦跡を回ることができました。自力ではなかなか難しいところばかりです。今回は三浦にある第十七震洋隊基地跡です。

 俵集落と三浦集落の間の県道から海岸の方へ降りて行き、水産研究所の敷地に入る。

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この海でクロマグロの稚魚を育てているそうだ。

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お目当ての震洋艇格納壕は研究所の敷地内から遠望する。ここから見えるのは横穴が1つだけ。

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入口はかなり厚いコンクリートで補強されている。

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こういう壕が岬に沿ってこちら側に6つくらい、岬の向こう側にも同じくらいあるという。壕の深さはは30メートルというから以外に深い。特攻艇の数は50隻で、1つの壕に4~5隻が格納されていたという。

ここにあるのは第十七震洋隊の基地跡である。震洋隊というのは太平洋戦争末期の海軍の特攻隊で、震洋艇と称する全長5~6メートルのベニヤ板のモーターボートを主兵器としていた。艇は単純な構造で、自動車のエンジンで推進し、ぶつかった時に先端に装填した炸薬が自動的に爆発する仕組みになっていた。
※参照(過去記事) http://hn2784.hatenablog.com/entry/2014/05/28/223106

 

加計呂麻島にはこの三浦の他には、呑之浦に姉妹隊の第十八震洋隊が配備されていた。下のような位置関係になる。

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深くて狭い入り江の奥にあるという点では地形がきわめて類似している。「とにかく見つからないように息を潜めて隠れていた」ということか。最後まで出撃はなく(幸いにも)隠れたまま終戦を迎えた。

呑之浦の第十八震洋隊基地跡は、隊長であった島尾敏雄の文学碑が建っていて観光客が訪れることも多いが、こちらの三浦の基地跡の方はほとんど知られていない。

島尾敏雄は、戦争体験を元にした作品を多く残しているが、その中の『魚雷艇学生』という作品には第十七隊と共に佐世保から加計呂麻の基地に向かう場面が出てくる。

「辰和丸と称する輸送船が佐世保港をひそやかにすべり出たのは昭和十九年十一月十一日のことであった。その船には奄美の加計呂麻島を守備する大島防備隊付として送りつけられる諸部隊とその兵器が搭載されていた。同島内配置の砲台部隊二、三の他に、姉妹隊の第十七震洋隊と共にわれわれの第十八震洋隊の、兵員、兵器、何年分かの食糧や諸々の需品が摘みこまれていたことはいうまでもない。ただ第十七震洋隊のH大尉だけは直接飛行機で着任する由であった」

この後、両隊共鹿児島湾を経由して11月21日に大島防備隊に着任している。第十七震洋隊の指揮官はH大尉とあるから、島尾よりも階級が上である。予備士官ではなく兵学校出の本職の軍人だったようだ。