「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

芝家墓石群 (篠川)

前に篠川農学校跡に来た時に、芝家墓所がどこかわからず集落内で2~3人の人に聞いたのだが、どうしても行きつくことができず諦めたことがあった。今回はたまたま妻も一緒なので二人がかりで探すことにした。

だいたいの見当をつけて車を停める。運よく女性の方が外におられたので聞いてみると、「それならHさんが(お名前は聞いたのだがここでは頭文字で)一番詳しい」と、携帯で呼び出してくれた。ほどなくHさんがやって来られて、4人で墓所に向かう。

道路沿いにお墓が1基建っているところから草地に入る。畑のそばを通り抜け、猪除けの柵を開けて山道に入っていく。少し行くと、墓碑が集まっているところがあって、その奥の方に「芝家墓地」と書いた小さな案内板がある。

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案内板の左側にあるのが芝家の墓石群。苔むした大きな五輪塔の形をした墓石がずらりと並んでいる。

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大島の墓地は集落外れの海の見えるところにあるケースが多いが、ここは殆ど山中といってよい場所だ。森閑とした中にこれだけの墓石が並んでいると、何とも言えない歴史の迫力のようなものに圧倒される。

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名前や没年などの字が刻まれたものはない。Hさんによると、奥(後方)のものほど古いものだという。

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芝家は琉球建国の王・舜天に連なっているという。舜天の孫である義本王が退位後放浪の旅に出て、義本の次男継好が大島に渡ってきて篠川に拠点を置いた。これが芝家の元祖であるとのことだ。舜天王といっても沖縄の歴史は不勉強でピンと来ないが、調べてみると12世紀末に王位に就いた人である。尚氏が三山を統一した後、奄美に侵攻して支配を強化するのが15世紀半ばだから、そのずっと以前から芝家の祖先は大島に渡ってきていたということになる。

その継好から22代目にあたる好徳(1714年生)のときに、芝家は隆盛を迎える。藩への功績により、龍郷の田畑佐文仁(竜左運)に次いで郷士格を得ている。奄美では田畑(龍)家と並ぶ名家(旧家)である。


Hさんによると、芝家は古くは龍家ともつながりがあったそうで、別の場所には龍家の墓もあるという。その墓にも案内してもらうことに。先導してくれる車の後ろについてT字交差点右折してすぐ、車を停めて坂道を上っていく。途中ヤンチュ(家人)の墓もあると教えてくれる。N家の墓とある区画の隅の方に小さな墓石があり、「膝素立之墓」と書かれていて前には線香立などが置かれている。

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膝素立(ヒダスダチ)とは、ヤンチュの子に生まれて一生をヤンチュとして奴隷的身分で過ごす人のことである。

龍郷の屋入でみたヤンチュの墓は路傍にあって刻まれた字も判別できない状態だったが、こちらはそれに比べれば随分新しい。

 

龍家墓はもう少し上の方、かなりの斜面にある細い道を通っていく。

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龍家の墓に着く。苔むした墓石が並んでいて、こちらは形やおおきさにいろいろバリエーションがある。

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Hさんにはこの後芝家屋敷跡の場所も教えて頂いた。道々には篠川農学校の前身である西校に通っていた昇曙夢氏のことなども話してもらった。感謝です。

 

※ヤンチュのことやその時代背景など、この本が詳しい。

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