「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

鉄輪車だけじゃなかった柏有度・墓碑と石灯籠(知名瀬)

小宿を過ぎて山道に入ると、行き交う車が一気に少なくなる。沿道は松くい虫の被害が目立つ。峠を降りて集落に入る手前の県道そばにやや小さ目の墓地がある。

墓地入り口のすぐ右が柏有度の墓碑。道路側に背を向けている。

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右側が墓碑。各面に文字が刻まれているが、ほとんど読めない。

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側面に「天保四年巳・・」とある。

柏有度は赤尾木の生まれで離婚した母に連れられて知名瀬に移住し、黍横目の役を務めていた。天保4年(1833)巳6月9日、名瀬から小さな舟に乗って知名瀬に帰る途中に激しい風浪にあって漂流し、舟と共に行方不明になっている。

 

左側の石灯籠は、明治21年に大島の糖業への功績が認められて農商務大臣から追賞を授与されたときに建てられたものである。

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これも碑文は断片的にしか読めない。資料によれば追賞授与証の文面には

文化之比務ヲ製糖搾車ノ改良ニ委ネ、初メ七副ヲ失フテ後五副ヲ得、木製漸く廃シテ鉄製漸ク興レリ、其ノ遺利ヲ収メ冗費ヲ省クノ功多シ、因ッテ特ニ之ヲ追従ス

とあり、これと同文が刻まれているようだ。

七副、五副というのは車(転子)のことらしい。最初木製の七つ車を工夫して、これを回転させるために横棒の両端に牝牛と牡牛をつなぎ、動物の本能を利用して能率を上げようとしたがうまくいかず、その後五つ車に改良、更に研究を重ねて紆余曲折の末、鉄輪車による黍圧搾機の開発に成功した。試作の為に2回にわたって上鹿、研究費は殆ど自費で賄っていたという。

 

石灯籠の足元には小さな碑があり、これは平成5年の建てられたもの。

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こちらは奄美博物館に展示されている鉄輪車。

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柏有度の功績は「鉄輪車」だけではない。
有度は文政の頃、台風に遭って中国に漂流し3年後に帰島した。このとき種々の柑橘類を持ち帰って島中に繁殖させた。

「今日島内至る所に見受ける熱帯性の果樹番石榴(バンシロウ)の如き有度のもたらしたものであるという」  ~『大奄美史』~

「現在の知名瀬ミカンもその1つではないかといわれる。・・・出荷量の増えているポンカン、タンカン類も翁の遺徳を継ぐものだろう」  ~『碑のある風景』~

 

また、中国や本土に渡った折には鉱石類を集めて回り、これが後に彼の子孫による龍郷の屋入銅山の開発にもつながっていったという。。
屋入銅山跡はこの前見てきたばかりだが、こういうことは全く知らなかった。

※参照 銅山坑道跡 (屋入) - 「大奄美史」紀行


名越左源太も柏有度について記しているというので、探してみた。

有度と云う者は、大島に珍しき雅人にて、俗の風はなれて、書物又は書人の為に成る。砂糖車の金輪又木口車を工夫作出し、又喜界島にも御用にて下り、作方指南し、珍しき草木を見出自宅に植、常に下女に色々の珍しき菓、風呂敷に包み持行く。
~『南島雑話1』(東洋文庫)~

風雅の人で書に親しむ教養人であり、しかも心配りのできる優しい人でもあったようだ。

これは名越左源太の描いた図。

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庭先の有度らしき人物のそばに何か植えられていて、座敷には使いかけの筆・硯やノートがある。

また、別の個所では、

知名瀬の有度、物産に心懸、草木薬種の類毎々自ら畠地に仕立、島中に流行させ度志なれ共、依物左程も之無く・・ ~『南島雑話2』(東洋文庫)~

とあり、物欲や私心のない人物でもあったらしい。

 

※参考『大奄美史』(昇曙夢)、『碑のある風景』(籾芳晴)、奄美市役所HP