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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

田中一村写生の地 (笠利町歴史民俗資料館)その1

前に宇首貝塚史跡公園に行ったときに、歴史民俗資料館との共通入場券を勧められたが、その時は行けなかったので今回は予定のコースに入れておいた。

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先ず館員さんに「田中一村写生の地」を聞くと、外に出て案内してくれる。

資料館の右手に芝生の広場がある。

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奥の方に碑が3つ。

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右側は「田中一村写生の地」と書いた石柱。

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中央には句碑。

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 砂白く
 湖は青く千鳥啼く
   田中一村

一村の写生帖には自作の俳句が書き留めてあったそうだ。
 小春日を 小夏と聞けり 奄美島
 梅花なし 桃花またなし 島の春
 鶯も ソテツを侶(とも)とす 奄美島
 若葉見えず 杜鵑(ほととぎす)聞かず 鰹食う
 花は緑 燃ゆる緋の葉よ 名はクロトン
 熱砂の浜 アダンの写生 吾一人
 ~『アダンの画帖-田中一村伝』から抜粋 ~

俳句としての良し悪しは私には分からないが、一村が感じ取った奄美の自然を共感を持って感じ取ることはできる。

下のプレートに略歴(要約)
明治41年7月22日栃木県に生まれる。大正15年6月東京美術学校(現東京芸大日本画科に入学、同期に東山魁夷など。わずか3カ月で中退。昭和33年49歳のときに千葉を引き払って奄美大島に移住。昭和52年9月11日名瀬市有屋町の自宅で死去。

 

奄美に定住してからはとにかく赤貧の生活だったという。紬の機織りとして働くが、そのうち染色の工程に自分が向いていることに気づいて、染色工として日給450円で大熊の紬工場に通うようになる。「5年間働けば3年間の生活費と絵の具代が捻出できると思われます。そして私の絵かきとしての最後を飾る立派な絵をかきたいと考えています」と知人にハガキを出している。自宅に菜園を造り生活を切り詰めて貯金に回し、毎朝本茶峠までの歩行訓練で体調を維持し、自然観察で画想を貯えた。

昭和42年、60万円の貯金を手にした一村は紬工場を辞めて、絵の世界に没頭する。
3年間絵を描いた後、今度は個展の費用のためにまた紬工場で働くが、高度成長期のインフレや体調の悪化のために計画が狂ってくる。昭和48年になって切羽詰まった一村は、千葉時代に絵を引き取ってもらっていた知人に絵の買取を頼んでいる。

「蘇鉄残照図(5万2千円)尺八巾絹丈五尺、ソテツの原生林のかなたに夕日の輝く趣、制作日数45日、材料代7千円(純金5千円使用)、私の精魂の限りを尽くしたものです。・・・」と全部で5枚、13万2千円。自分の日当を1000円として正確に計算している。おまけに「一時金で頂けるならば、12万円と致します」とバーゲンまでして、しかもこれに返事はなく、なしのつぶてに終わったという。

当時の日当1000円というのがどの程度か、はっきりとは覚えていないが、少なくともサラリーマンの初任給の半分をずっと下回る程度だったのではないかと思う。

※参考 『アダンの画帖-田中一村伝』(南日本新聞社編)

 

一番左側にある碑は、
念ずれば 花ひらく
 鳩寿四百民
と読めるが、ここにある謂われはよく分からない。

 

※参照 田中一村終焉の地(名瀬有屋町) - 「大奄美史」紀行

 

***次回に続く***