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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

丸田兼義翁頌徳碑(名瀬高千穂神社)

名瀬の高千穂神社を訪ねた際、境内に「丸田兼義翁頌徳碑」と書かれた石碑があった。高千穂神社を紹介したブログでは、碑の写真だけ載せて内容はスルーしてしまったが、大島紬の歴史に欠かせない人物であり、改めてここで取り上げることにする。

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丸田兼義は安政4年(1857)名瀬に生まれた。父は安政2年に大島代官の附役として大島に渡航していたが、その後帰藩して兼義が4歳の時に物故する。

明治になっても奄美大島の人々の暮らしは、サトウキビの収穫に依存していたが、この頃になると、江戸時代から細々と続けられてきた大島紬が、少しずつではあるが商品として作られ始め、やがて大都市の市場へ売り出そうと島外からの商人がやって来るようになっていた。

サトウキビだけでは島の人々の暮らしは維持できないと危機感を持っていた兼義はこれに目を付けた。自ら柄の考案に取り組み妻がこれを織って、夫婦で研究開発を続け、ついに紬業が島民の生業として有利なことを確信するに到った。

明治23年(1890)、東京の上野で開かれた第3回内国勧業博覧会に兼義は紬を出品し大好評で迎えられた。その後,紬の販売先は一気に関東にまで広がり、明治25年頃には,大島紬の名前は全国的に知られるようになった。

ところが,一部の業者が産出の増加を図って粗製乱造に走ったため、紬の品質を落とし信用を失ってしまう事態に陥った。清く正しいことを誇りとする兼義は,紬の品質を守ろうと質の悪い製品を作る人たちを説得して回りつつ、対策として紬の組合を作ることを考えた。誤解や誹謗中傷と戦いつつ、明治34年には同業者や有識者を動かして大島紬同行組合の結成にこぎ着けた。組合が行った厳格な製品検査は,紬全体の品質を守る効果を生み,大島紬の評価は,全国でさらに高まっていった。

攻めと守りを兼ね備えた、経営の教科書に出てきそうな人物だが、無私でカリスマ性のある人だったという。

『大奄美史』では、「大島紬の発達における丸田兼義の功歴はまさに一篇の苦闘史である」として、約3ページに渡って功績を紹介している。
また兼義は「県舎高千穂神社氏子総代として多年神職を補佐し、郷党を率いて力を神社の経営に致し、社殿を改築し、斯道の興隆に寄与するところが多く・・・」とあるから、信仰も篤かったようで、高千穂神社に碑があるのも納得できる。


「丸田兼義翁」は昭和32年に102歳で他界。

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※参照 高千穂神社 (井根町) - 「大奄美史」紀行