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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

大島海軍防備隊跡(2) 大島輸送隊慰霊碑 (瀬相)

***前回の続き***

 

大きな慰霊碑の左側に少し離れて2基の碑がある。

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 大きい方は「大島輸送隊奮戦記概要」と題した碑文で昭和59年の建立である。

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読み取りづらい個所もあり、多少要約しながら転載する。
第17号一等輸送艦は甲標的T型特殊潜航艇2隻と武器弾薬糧食を満載して3月8日~10日の間に沖縄那覇港の敵前揚陸に成功した。ところが第2回輸送の直前に米軍の沖縄上陸作戦が開始された為急遽予定を変更して、沖縄に最も近い前進基地である奄美大島に武器弾薬糧食特攻兵器の敵前輸送を強行することになり、大島輸送隊が編成された。主力部隊は第17号一等輸送艦、第145号、第146号二等輸送艦の3隻、護衛部隊は第186号海防館、第49号第17号駆潜艇の3隻であった。
大島輸送隊は第17号一等輸送艦長の指揮の下に敵機敵潜水艦の攻撃を排しつつ瀬相港に入港した。4月2日午前1時半より午前6時半までの間に島民の協力により輸送物資のほぼ全部の揚陸に成功したが、その直後の午前6時50分より午後2時40分迄米戦闘爆撃機延べ200機以上の爆撃を受け、海防艦186号は午前10時半に轟沈、第17号一等輸送艦は午後11時36分に爆沈した。戦死者は海防艦53名、輸送艦49名の計102名、戦傷者は80名であった。

 

こんな狭い海域に200機とはすさまじい攻撃である。瀬相には高射砲台もあったから、陸上と海上から必死に応戦したのだと思うが、敵機の損害については書いてないからおそらく一機も撃墜できなかったのだろう。

 

こちらはその時の戦没者の碑。花が供えられている。

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第17号一等輸送館の49名の戦没者名が並んでいる。こちらは防備隊とは異なり、山形県や新潟県などの出身者が多い。
また末尾には、
第186号海防館戦没者53柱
第18号一等輸送艦○○○○他全員
とある。
第18号一等輸送艦については碑文では詳しく書かれていないが、沖縄那覇港に向かっている途中、昭和20年3月18日に消息を絶った輸送艦である。乗員225名の他、第一回天隊の隊員127名と回天8基を乗せていた。生存者がいないため、消息を絶った後の状況は長らく不明であったが、米国潜水艦の戦闘記録により、18日未明に魚雷8発の攻撃を受け1時間の交戦の後に沈没したことが分かったという。


瀬相の海のようす。海岸近くはかなり干上がっている。物資を揚陸するにも、艦隊はかなり沖の方に碇泊していたと思われる。

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こちらは瀬相港の桟橋方向。のどかな光景からはこういう凄惨な戦闘があったとは想像もできない。

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