「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

国道58号線鹿児島県最南端の碑(古仁屋)

古仁屋の街を散策していると、古仁屋小学校の少し海側の方の国道沿いに小さな公園があって、石碑が建っている。

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世界にひらく緑と海洋のきらめくまち
   すべてのみちに感謝を
一般国道58号鹿児島県最南端の地
   国道昇格25周年記念

下に説明がある。
一般国道五十八号について
一般国道五十八号線は鹿児島市を北点に種子島を経て、笠利町赤木名から奄美大島本島を縦断し瀬戸内町古仁屋へ至り、さらに海上を渡り沖縄本島北端の国頭村へ上陸、終点那覇市までの総延長二百六十七.四キロメートルの幹線道路であります。

国道58号というのは単に奄美大島を縦断する幹線道路のことだと思っていたが、もっとスケールの大きいものらしい。海上部分が長いのも特徴である。「大島街道」かと思っていたら「南西街道」か「ヤポネシア街道」であったということか。

 国道の起点は鹿児島市中央公民館前交差点、終点は那覇市明治橋交差点で、昭和47年(1972)5月15日沖縄の施政権変換と同時に一般国道58号に指定された。総距離877.9km、実延長268.4kmで、実際に道路がある部分は、鹿児島市内(0.7km)、種子島(49.7km)、奄美大島(50.4km)、沖縄本島(125.0km)に分かれている。(距離は直近かどうか不明)

 

国道58号起点の中央公民館前交差点は、この西郷さんの銅像の前にある。

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写真を撮ったときには、まさか奄美大島を通っている国道がここから始まっているとは、夢にも思っていなかった。

 

 かつて国道は一級、二級に分かれており、一級国道にのみ1~2桁の番号が付けられていた。昭和40年(1965)に一級、二級の区別がなくなり一般国道に統一された。その後に新設された国道にはすべて3桁の番号を割り当てることになっているが、この区間には特例として2桁の路線名が付与されている。したがって旧一級国道ではない唯一の2桁番号の国道である。

 

奄美大島の部分は赤木名を起点としている。
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笠利地区を横断する県道との交差点から始まっているが、古仁屋側のように何か記念碑があるわけではない。

 

私が初めて奄美大島に来て名瀬~古仁屋間の道路を通ったのは昭和49年なので、すでに国道に指定されてからのことになる。やたらくねくねしたいくつもの長い峠道を、バスが砂煙をあげながら登ったり降りたりしていたことが記憶にある。もちろん現在はほとんどトンネルに置き換わっている。

 

国道になる前はどうなっていたのだろうか。
『大奄美史』に「大正八年古仁屋県道完成」という簡単な記述がある。三太郎茶屋跡の案内板にも「時代は移って大正8年には新たな県道が完成して、次第に乗合自動車の時代へと移っていく」などと書かれていて時期も符合する。この古仁屋県道というのが現在の国道の前身のようだ。別の資料では「県道名瀬古仁屋線」(大島郡名瀬村~同東方村)と書かれていて、これが正式名称らしい。

この名瀬古仁屋線は昭和18年に「国道特38号」という軍事国道に指定されている。大島に軍事国道は5つあって、この国道はその中で最期に指定されたものである。ちなみに他の4つは大島海峡沿岸の司令部や砲台などの軍事施設を結ぶ道路で、大正期に指定されている。

 

『名瀬ノート』(島尾敏雄)には「戦争前は名瀬と古仁屋の間をバス代わりの中古の乗用車が1日1回便で運行されていただけというではないか。その道を大型トラックがはじめて通ったのが戦争のときの軍隊のものだったと言われる」などと書かれている。何となく当時の様子が想像できる。