「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

龍王神社/観音堂 (大熊)

県道から大熊の集落の中に入っていくと、右側に大きな鳥居と石段が見えてきて、ここが目指す大熊龍王神社だとすぐに分かる。

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鳥居は昭和46年奉納とあるが、それにしては真新しい感じがする。

鳥居の先に龍王神社と観音堂の案内がある。

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龍王神社の案内の方を抜粋する。

龍王神社の御祭神市杵島姫命(海山幸縁結び安産の神)、守護神は辯財天(福徳の神)で、昭和9年に大熊字前平(通称アガンマユ)に創建されたが、昭和45年に神殿や拝殿を新築して現在地に遷座された。

観音堂の説明は右側にある奄美市教育委員会の解説が詳しい。由来が非常に分かりやすく書かれているので、少し長いがそのまま引用する。

奄美市指定文化財
龍王神社観音堂
石造観音坐像及び石造弁才天坐像
有形文化財・彫刻)
現在の龍王神社が位置する下側の住宅地は、かつて「上殿地ウントノチ」と呼ばれていました。与人(薩摩藩統治時代の島役人の最高役職)を務めていた喜佐統という人の屋敷が建てられていた場所です。
その上殿地の背後の山には、「観音寺」が建てられていたそうです。この大熊の観音寺は、その後、赤木名に移され、さらに伊津部へ移される変遷をたどりました。薩摩藩から派遣されてくる役人たちの信仰の対象として、仮屋(代官所)の移転に伴い、観音寺も移動していたようです。明治時代以後、神仏分離令により観音寺は廃絶されましたが、喜佐統の子孫により、ふたたび大熊集落の龍王神社観音堂に一緒に祀られているのだと伝えられています。
その観音寺に祀られていたといわれる仏像が龍王神社観音堂にある観音座像と弁才天坐像の2つの仏像です。どちらも石で造られたとても立派な石仏です。旧名瀬市教育委員会による調査の結果、優れた彫刻技術が認められ、江戸時代に同じ工房で制作されたものではないかということも明らかになりました。
以上の調査結果をふまえ、平成10年9月30日、観音寺に関わる貴重な資料として、名瀬市指定文化財に指定され、現在に至ります。
  奄美市教育委員会

 

参道を登っていくと、たまたま前を歩いている人が振り返って立ち止まる。「参拝ですか」と聞くので、「見学です」と答えると、しばらく思案の後「鍵を持って来る」と、登ってきた石段をまた降りていく。実はこの日は大変な大雨の日で、せっかく来たのにと気の毒に思われたのかも知れない。私の方は恐縮するばかりだ。


戻って来られる間、境内で写真撮影。
建物は1つの家に2つの入口(玄関)があるという感じである。

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こういうのも珍しい。

こちらが右側の龍王神社。

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こちらは左側の観音堂。

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先ほどの方が戻って来られ、雨戸を開けて内部を見せて頂く。入口は別々だが、中は同じ床の上に2つの祭壇がある。右側は龍王神社の拝殿。

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こちらは観音堂。

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どちらにも注連縄、三方などがあり、一見すると神社っぽくて同じように見えなくもない。ただ、よく見ると観音堂の方は一番手前の段にローソク立てや香炉、おりんがあって、仏教(お寺)の型式になっている。

 

神社と観音堂両方合わせて集落の人たちで管理しているという。以前はここにも神主さんがいたが、今は名瀬の高千穂神社宮司さんが、神事の時に来てくれているという。年2回の大祭には村総出で手入れをしているそうだ。

創建当時はもっと山の上に神社があったという。昭和40年頃と思われる集落の地図を見てみると、今の神社の建っている辺りが「観音寺跡」で、南西方向200mくらいの山中に「竜王神社」と書かれている。

 

神社の境内から見た大熊の集落。

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海岸に向かって人家が長方形に集まっている感じである。琉球との交流が盛んで、藩政期には薩藩の仮屋(代官所)が置かれたところでもあり、この集落にはさまざまな歴史が詰まっていそうだ。今回は大雨で身動きがとれずとりあえず撤退するが、次の機会には集落内をじっくり散策したい。