「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

田中一村終焉の地(名瀬有屋町)

 国道58号和光バイパスから道路脇の案内の通り住宅街に入っていく。「田中一村終焉の家」と書いた木製の案内板を左折して、緩い坂を少し登った住宅地のはずれの閑静な山の麓に、一村が最期を迎えた家がある。

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入口の石碑に碑文が書かれている。

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一部を抜粋する。
田中一村の生涯
本名、田中孝。明治41年7月23日、栃木県下都賀郡に生まれる。幼い頃から画才を現し、7歳のとき児童画展で文部大臣賞を受賞する。大正15年東京美術学校(現東京芸大)に入学し、日本画科を専攻、同期に日本画壇の主流を歩んだ東山科魁夷らがいた。しかし入学後間もなく諸々の事情が重なり、わずか3ヶ月で中退した。
昭和13年、東京から千葉に移住、その間、襖絵や天井画の作品を描く。
昭和22年、第19回青龍展に「白い花」を初出品し入選したが、以後画壇との接触を断ち、絵筆一本の放浪の旅に出る。
昭和33年の暮れ、奄美を訪ねた一村は、ここを終生の地と定め、大島紬の染色工として働きながら、亜熱帯の野性的な植物、原色調の魚類、動物等を20年にわたる創作活動のモチーフとして約30点の作品を残し、昭和52年9月11日、69歳で孤高の生涯を閉じた。
(以下略)

一村は50歳のときに、自分の絵のモチーフを求めて単身奄美にやってくる。小さな家に住んで人と付き合わず、酒も飲まず、染色工のアルバイトをしながら、それ以外の時間をひたすら絵を描くことに没頭したという。まさに清貧の芸術家である。

家は奄美でよく見るスタイルの簡素な木造の家だ。残念ながら内部は見ることができない。

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 一村はここから1キロほど離れた別の集落に住んでいて、転居して10日ほどで亡くなっている。夕食の野菜を刻んでいて心不全で倒れたといい、最期を看取った人はいない。

葬儀は千葉からかけつけた妹とその長男、晩年の一村と親しかった奄美焼き窯元の宮崎氏など少数のゆかりの人々で行われた。親族が遺骨を持って帰るとき、宮崎氏に残ったゴミの処分を依頼し、宮崎氏は言われた通り名瀬市南の山間のゴミ捨て場まで運んで行って投棄した。翌日思い直した宮崎氏は自分の工房の陶工達と一緒にゴミ捨て場に行き、険しい斜面をロープを伝って降りて、やっとのことで柳行李一点を回収したと言う。一村の素描や遺品の一部がこうして救われた。世に出ることのなかった一村の真価を、肉親ですら理解できていなかったようだ。

※参考『街道の日本史55鹿児島の湊と薩南諸島』(吉川弘文館

 

私も美術については全くのど素人で作品の価値など何のコメントもできないが、奄美に住んで奄美を強く発信したという意味で、分野こそ違うものの近代以降では島尾敏雄田中一村が双璧ではないかと思っている。
一村についてはこの後も機会があれば取り上げていきたい。


我が家の壁にかかっているささやかな一村の作品です。

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