「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

赤木名のまち散策

赤木名でいくつかの史跡を巡ったあと、今度は街の中をぶらぶらと歩いてみることにした。

公民館に車を停めて県道に出る。

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赤木名の表通りで道路はほぼ直線だ。両側には学校や役場(総合支所)など主要な施設がある。

通りに面して赤木名カトリック教会がある。

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奥の方に教会の建物。花に囲まれたマリア像が印象的だ。
大笠利教会のような豪壮な建築に比べると随分こじんまりとしているが、背後の山の風景とも溶け合っていて、全く違和感がない。

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県道から住宅街に入る。両側に樹木が多く緑が清々しい。

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まっすぐな道が長く続いている。。
大島では名瀬、古仁屋に次いで大きな町だと思うが、ここは雑然としたところがなく、いかにも歴史のある町の風情だ。

 

真ん中付近、立派な土俵がある。

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建物には「中金久学舎」と書かれている。

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「学舎」というのは他の集落では見たことがない珍しい名前だ。学校や塾でもなさそうだし、土俵があるから公民館のようなものなのだろう。尤も県道の反対側には公民館があるから、どういう使い分けをしているのかはよく分からない。

 

赤木名村は明治初期に外金久村と中金久村に分村して、これと里村を合わせた3ケ村を総称して赤木名と呼んでいたという。村名はその後、笠利村(後笠利町)の字名になっている。大雑把にいうと、北部から海岸沿いが外金久、中央部が中金久、内陸寄りの部分が里のようだ。

 

各家の庭木がよく手入れされていて全体的にも統一感がある。街ぐるみで景観保護がされているようだ。

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家並みを抜けて海岸近くの道路に出る。右側にサンゴの石垣があった。

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断面を見るとかなり幅があるのが分かる。

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県道まで戻ると、目の前に大きな鶏の像。「みなとや」という鶏飯の店だ。

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自動販売機の横には「鶏飯発祥の地」とある。

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先ほどの鶏像の台座に「鶏飯元祖の由来」を書いたプレートがある。少し長いので要約する。
鶏飯料理は、400年前に薩摩の役人をもてなすためにここ赤木名で考え出された、当時非常に贅沢な料理であった。昭和20年、みなとや旅館の初代館主が、これを復活し現代風にアレンジして「鶏飯」を開発した。昭和43年には現在の天皇・皇后両陛下に奄美を代表する料理として推奨され、おかわりを所望されるほど好評をいただいた。

 

今日では、鶏飯は奄美の代表的な名物料理である。みなとや初代館主の発想がなかったら、今我々が食べている鶏飯は存在しなかったかも知れない。お店の看板ではあるが、これはもう「史跡」といっていいだろう。(記念碑が新しすぎるのがやや残念だが・・)

中に入りたかったが、あいにく時間が早くてまだ開店前、「次に来たときは必ず・・」と思いながら、車を停めた場所に戻る。