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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

菅原神社 (赤木名)

赤木名のメインストリートから山の方を見上げると、中腹に社殿のあるのが見える。

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山の方へ近づいていくと、坂道に入るところに大きな鳥居がある。「菅原神社」の社額が掲げられている。

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鳥居をくぐって、途中から右側の階段を登る。階段の先に境内があり、奥の方にきれいな社殿が見える。

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境内の左側に神社の由来が書かれている。日付は平成24年とあるので、まだ真新しい。

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多少長いので一部省略して要約する。

菅原神社の由来は明確ではないが、1675年に赤木名観音堂が開山された後に、建立されたと考えられる。このことは1849年に薩摩藩のお家騒動で島流しにあった白尾伝右衛門による赤木名集落の絵図から読み取れる。それによると中金久の神社は「弁天」と記され、弁財天石像が神体として「弁天宮」と呼ばれている。この神社は明治4年に厳島神社と改められ、明治30年ごろに外金久の氏神として塩間に移転されている。
現在の中金久にある神社は里に描かれている「天神」にあたる。「天神」は大阪市北区の天満宮に鎮座する神社で、平安時代大宰府に左遷された菅原道真公を祀っていて、大阪市民から「天神さん」として慕われている。
中金久の菅原神社は学問の神様としても知られ、宝永7年(1710)の古見三銃が鰐口を寄進している。白尾伝右衛門が描いた原図は不明であるが、昭和48年に笠利町誌編纂の際にトレースした記録が残っている。

町内の地名や番地についてはよく分からないが、「中金久の神社」というのが、この場所のことらしい。藩政期には里集落に「天神」が祀られていて、明治30年以降の厳島神社の移転後に、中金久の氏神としてこの場所に移されてきたようだ。『笠利町誌』によると、移転前は仮屋と目と鼻の距離にあり、参道の松並木が仮屋屋敷に沿って前田川の船溜り場の方へ続き、壮麗な樹枝をのばしていたという。昭和36年にシロアリの被害により伐採やむなきに至ったとある。

 

社殿の中を覗いてみると、写真では小さくてよく見えないが、正面神殿に小さな坐像があり、菅原道真公の像のようだ。

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本土では天満宮や天神社など菅原道真を祀った神社はポピュラーな存在だが、大島ではほとんど見かけない。 

 

前に楕円形の手水鉢があり、これは相当古そうだ。文字などは読み取れず、何か書かれていたのかどうかもはっきりしない。

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ベンチとテーブルがあり、麓から登ってきた人が一休みするのにちょうどいい。

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ここからは赤木名の町が一望できる。山と海に囲まれて、緑も多くきれいな街並みである。

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