「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

旧木慈小学校奉安殿

瀬戸内町に残る6つの奉安殿の1つ、木慈小学校の奉安殿を見に行く。
県道から墓地の横の道路を入っていくと、川を渡った先の突き当りに小学校の校門がある。

f:id:hn2784:20140618162503j:plain

 

既に廃校になっているが、右側の門柱には「瀬戸内町立木慈小学校」のプレートが残っていて、何故かかなり新しそうに見える。左側にも何かあったようだが、塗りつぶされている。

f:id:hn2784:20140618162520j:plain

 

さっそく中に入って奉安殿を探すが、何と、藪の上の方に見えるのは屋根の一部と堅魚木だけ。

f:id:hn2784:20140618162620j:plain

f:id:hn2784:20140618162601j:plain

とても藪をかき分けて近づけるような状態ではない。
基壇の上に、囲い(高欄)がついて重々しく鎮座している筈だが、これではその姿を見ることが出来ない。登録有形文化財としてはちょっと寂しい。もっともわざわざこういうのを見に来る(私のような)物好きも滅多にいないから放置しているだけで、何かあるときにはその都度刈り取っているのだろう。

 

校庭は畑として再利用されている。

f:id:hn2784:20140618162648j:plain

校舎の建物はそのまま残っているようだ。校舎の方へ行ってみようかとも思ったが、畑の手前に網が張り巡らされて入っていく隙間がない。猪除けだとは思うが、とりあえず諦める。

 

木慈小学校が廃校になったのは昭和57年で随分古い。『町勢要覧』によると昭和60年の木慈の人口は18人とあるから、この頃にはすでに相当過疎化が進んでいたようだ。

 

学校跡を出て今度は堤防沿いに戻る。

f:id:hn2784:20140618162921j:plain

 

途中から集落の中に入る。

f:id:hn2784:20140618163142j:plain

真ん中に土俵がある。このミャーはかなり広い。奥に見えるのはトネヤのようだ。アシャゲらしき建物は見当たらない。
木慈は昭和40年代までは、加計呂麻島の中でも最もノロの神祭りが豊かに行われていた集落だという。『奄美大島かけろまの民俗』(鹿児島民俗学会・昭和45年刊)には、カムムケ、カミオホリ、アラホバナ、ミニャクチ、コエモン、フュウンメなどの木慈で行われている神祭りが紹介されている。

 

広告を非表示にする