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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

もう1つの鎮西村役場跡 (於斉)

於斉に鎮西村役場跡があるというので行ってみた。
海岸沿いの道路から瀬相方面へ向かう道路(トンネルのない方)を入ると、小さな川を渡る直前に斜め右の方へ行く道がある。車を降りてそちらの方に入っていく。

両側から薄の垂れ下がる小道が山の麓までまっすぐに伸びている。

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左右を注意しながら行くが、特に何もなく荒れた野が続くばかりだ。やがて前方の山が近づいてきて、そろそろ諦めて引き返そうかと思った頃に、薄のなかに碑があるのが見つかる。

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ここが役場跡らしい。少し草をかき分けて写真撮影。

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字は読みづらいが、意味はだいたい分かる。碑自体はそれほど古いものではない。
旧鎮西村役場跡地
明治41年4月1日島嶼町村制が施行され
旧渡連方実久方の戸長役場が合併し鎮西村 
〇〇を大正5年5月20日の分村までこの地
〇建〇行政に当る

 

『大奄美史』には、明治期の行政機構の変遷が書かれている。それによると、明治4年の廃藩置県後も大島は交通不便の為しばらくは藩政のまま持ち越された。明治8年に鹿児島県大支庁が置かれて、代官や与人、横目などの島役人を廃止、行政区画は旧来のままで民選の戸長、副戸長などを置いた。その後も何度かの変遷を経て、明治41年4月1日に島嶼町村制を実施、従来の方限、村を廃合し、村は大字となり、元の方限が村となった。
鎮西村が発足したのはその時のようだ。その後大正5年に実久村が分村して瀬武に役場を置き、鎮西村役場も押角に移った。
※参照 

実久村役場跡 (瀬武) - 「大奄美史」紀行

押角で鎮西村役場跡を探すが・・・ - 「大奄美史」紀行

 
於斉に役場があったのはわずか8年ほどであるが、細長い加計呂麻島で役場が1つだけというのは、当時の交通事情から考えると相当不便だったのではないかと推測できる。

この役場跡、原野の中にあって集落からはかなり離れている。人家のないところにポツンと役場だけあったとは考えられないから、昔はこの辺りまで集落が広がっていたのだろう。相当の変わりようだ。