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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

押角で鎮西村役場跡を探すが・・・

加計呂麻島が鎮西村と実久村に分かれていた頃、押角に鎮西村役場、瀬武に実久村役場があった。瀬武に役場跡が残っているなら、押角にも何らかの痕跡があるのではないかと思って行ってみた。

※参照 実久村役場跡 (瀬武) - 「大奄美史」紀行

 

大体の見当をつけて、消防の格納庫のあるところから集落の中に入っていくが空地と民家があるだけだ。突き当りを左に曲がると郵便局がある。

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郵便局に若い局員さんがいたので聞いてみる。「今は何も残っていない」とのことであるが場所を丁寧に教えてくれる。
先ほど通ったところに戻る。空地の先の生垣の上に民家の屋根が見えている辺りのようだ。

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押角に鎮西村役場があったのは、実久村が分村した大正5年から瀬戸内町成立の昭和31年までである。
柳田國男が古仁屋からこの加計呂麻島押角に渡ってきたのは大正10年、役場が置かれて間もなくのことだ。柳田は2月11日に押角に上陸、翌日加計呂麻を見聞して武名から古仁屋に戻っている。
『海南小記』には加計呂麻のことが(少しだけ)書かれている。

 

押角の人口は現在44人。役場のあった昭和30年には441人、15年後の45年には214人と半減している。加計呂麻全体でも同じような傾向で時代の流れなのだろうが、同時期に瀬戸内島の本島側では2割程度の人口減少に留まっているから、島から役場がなくなってしまったことも多少は影響しているのかも知れない。

 

役場探しは諦めて、県道の向かい側の押角小中学校に行く。

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背後の山とも調和して緑のきれいな学校だ。数年前から休校になっている。
島尾敏雄夫人となる大平ミホが教師をしていた学校でもある。
※参照 島尾敏雄文学碑その3 (呑之浦) - 「大奄美史」紀行

 

空いているので中に入ってみた。

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花壇も手入れされていて、休校中のようには見えない。

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校庭は草が少し伸びている。向こう側はすぐ海だ。

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