「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

大屯神社その2 (諸鈍)

***前回の続き***


大屯神社で最も「神社らしさ」を感じるのは社殿前の狛犬である。有盛神社にも行盛神社にも狛犬はないし、大島の神社で狛犬を見ることは滅多にない。加計呂麻では西阿室の厳島神社にもあるが、こちらの大屯神社の方がやや風化している分、歴史が感じられる。

右側の阿形。

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台座に「紀元二千六百年」とあるそうだが確認できない。昭和15年(1940)のことだ。

こちらは左側吽形。

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台座には「林八次郎」とあるそうだ。

※『瀬戸内町立図書館・郷土館紀要第5号』-「諸鈍ノート」(町健次郎)に大屯神社のことが詳しく書かれている。碑文を自分で読めないものは、この資料を参考にさせて頂いた。

 

左側の狛犬の尻の後ろにある手水鉢。

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天保十二(1842)林前賢の寄進である。

狛犬の前にも手水鉢がある。

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これには碑文がない。

 

境内の右側は道路との間が壇になっていて、ここにいくつかの石造物が並んでいる。

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中央の祠の中にあるのが、平資盛の墓碑。肉眼では「三位中・・」くらいまでしか読めない。

祠の右手前にあるのがが3つ目の手水鉢。

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こちらは安政三年(1855)前薫の寄進である。


何故1つの神社に手水鉢が3つもあるのか。碑文に「上國」という字句があることから見て、島役人であった代々の林氏が公務で鹿児島城下に行った時の記念(あるいはお土産)として、持ち帰ったものなのだろうか。

 

祠の右側に石が3つ並んでいる。

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中央の白い石は、一見新しそうで私などは何気なく見ているだけであったが、識者が解読したところでは、文政十三年(1830)に建てられたもので平資盛のことを詠ったものであるらしい。
夕ふくれて
   藤原安実
伊に史への 奈良の都を この嶺に 移して此処に 奥津城処
○○火の 春すかがみ ○○○○ 千代も 名処乃 化け
~『諸鈍ノート』から~

 


大屯神社の外側の道路わきにも平資盛の墓碑がある。

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「三位中将・・・」くらいまでかろうじて読むことができる。

そばに案内板がある。

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最初に墓碑の読み下し文が書かれている。
平資盛墓碑・読み下し文
【文面】
以下は、大正九年に諸鈍出身の喜久晩学が読み下したものの転載です。
史に称す 寿永の乱 安徳帝蒙塵 西に幸して舟中に崩ず 卿等相従いて海に沈む 或は曰く卿及び有盛、行盛帝を保護して・・・・(以下略)

その隣に案内が書かれていて、これは非常にわかりやすい。
平資盛墓碑
史実かどうかは別として、奄美大島一帯には平家伝説が伝わっています。平有盛、平行盛、平資盛の三将が落ちのびてきたというもので、それぞれの縁地として、奄美市名瀬浦上、龍郷町戸口、加計呂麻島の諸鈍が知られています。
この三ヶ所には共通して、藩政時代に薩摩の役人が来て建てた墓碑がのこっています。いずれも薩摩藩による砂糖買入高が大きく増えてきた文化・文政のほぼ同じ頃に建碑されていますが、その理由についてはまだ十分に解明がなされておらず、今後の研究が待たれます。
墓碑は、諸鈍にかぎっては大屯神社の敷地内に二基あります。ここにあるものとは別に境内のコンクリート祠内にもあり、いずれも鹿児島から持ち運ばれてきた石で、正面には「三位中将小松資盛之墓」と彫られています。
なぜ同じものが二基あるのかというと、もう一箕の方は、薩摩から諸鈍に流されてきた染川四郎左衛門という人物が、それまであった平資盛墓碑が風雨に浸食されているのを見て哀れに思い、同志と協力して再建したものだそうです。染川はのちに諸鈍から沖永良部島流謫となり、同島で医業のかたわら塾を開いたそうです。
墓碑はどちらも文字の摩耗が激しく、新たに再建されたものがどれかはっきりしていません。

一見すると境内の中の方が新しそうだが、石質の違いもあるだろうしこちらの方は野ざらしになっているので何とも言えない。

 

 

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