「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

大屯神社 (諸鈍)

大島へ落ちのびた平家武将ゆかりの5つの神社のうち、一番南にあるのが平資盛を祀る大屯(おおちょん)神社である。フェリーの発着する生間港から、県道を横切ってアハンティと呼ばれている小さな峠を越える。舗装された道路が山を切り裂いて通っていて、便利ではあるが遠くから見るとやや醜悪な姿になっている。

峠の頂上付近からは諸鈍長浜が一望できる。

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アハンティの道路わきは緋寒桜が美しい。

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※写真は1月末に撮影したもの。

アハンティの坂を下りて集落に入る手前の左側に大屯神社がある。

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鳥居手前に諸鈍シバヤの案内板

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諸鈍シバヤ(芝居)
加計呂麻島(かけろまじま)諸鈍・大屯神社(しょどん・おおちょんじんじゃ)
大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合う位置にある加計呂麻島。「諸鈍シバヤ」は諸鈍集落に残る踊り・村芝居で、平家の落人・平資盛が土地の人を招いて上演したのが始まりと言われています。一時中断した時期があったものの約800年も続く伝統芸能で、毎年旧暦9月9日に平資盛が祀られている大屯神社で上演されます。踊り手たちは諸鈍集落の住民で男性のみ、子ども達も参加して、紙のお面に陣笠風の笠をかぶり、囃子と三味線の伴奏にのって演じます。かつて20種余りあったという演目は、現在11演目が受け継がれています。演目の中には、猪を倒す勇壮なものやひょうきんな仕草で観衆を笑わせたりするものもあり、毎年多くの観客が全国から訪れます。

諸鈍シバヤはまだ現地で見たことがないが機会があればぜひ見てみたい。(20年近く前に国立小劇場で「諸鈍シバヤと奄美の島唄」という公演で見たことがある)

 

境内奥に赤い屋根の社殿、隣は諸鈍シバヤの道具倉庫らしい。

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中央に土俵がある。土俵はミャーには必ずあるが、神社にあるのは大島では他に見かけない。諸鈍シバヤのためなのか他に何か意味があるのかよくわからない。

社殿は赤い屋根で、行盛神社や有盛神社に比べるとやや小ぶりであるが、社殿の両側には狛犬が睨みをきかせている。

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拝殿奥に神殿。背後の山をおおちょん山というらしい。

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手前に由緒書きがある。
大屯神社
鎮座地 大島郡瀬戸内町諸鈍繰原二五三
ご祭神 應神天皇、神功皇后
    三位中将小松(平)資盛卿
例祭日 旧暦九月九日
現等級 七級社
神事芸能
旧暦九月九日~諸鈍シバヤ(無形文化財)文治元年壇ノ浦の戦で敗れ落ち延びた平資盛一族は加計呂麻島の諸鈍に居城を構えたと伝えられ、その時卿を慰めるために始められたと言う。「シバヤ」は「芝居」と書き青紫(椎)の木枝で囲まれた楽屋のことで狂言や風流踊りなどの特徴から四、五百年前に諸鈍が海上交通路の要衝として栄えた頃中国や大和・琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったものと思われる。踊り手は全員男性で主に「カタビラ」と呼ばれる手作りの紙の仮面をつけ、「サンパト」(三番叟)芝居の前口上から始まり「兼好節」以下数演目を演じる。
由緒
創建年代は不詳であるが、境内には文政十一年建立の平資盛卿の墓碑が現存しており鎮座地の諸鈍は卿が配下の者にここまでは追っ手も来るまいから諸公は鈍になれの落人伝記が色濃く残っている。又当地には八月踊り歌の一つ「諸鈍長浜節」が残っており「しょどみながはまややまとがでとよむ、しょどみみわらべやとよむ(諸鈍長浜は大和まで名高い諸鈍の女童は島中に知れ渡る)」と歌われ琉球舞踊の「しゅんどつ」の曲目と歌詞が同じで往昔の繋がりを窺わせる。

他の平家武将を祀る神社には有盛、行盛、蒲生、今井などと武将の名前がついているが、この神社名には資盛の名は入っていない。祭神に應神天皇、神功皇后もあり、元々あった神社に資盛も合祀したのかも知れないが由緒にはそういうことは書かれていない。

 

『大奄美史』によると「全島を平定した三大将は、島内を三分してそれぞれの一を領した。即ち資盛は島の西南部東間切・西間切、屋喜内間切を領有し、諸鈍に居城を構えて全軍を総管し、・・・」とあるから、現在の瀬戸内町や宇検村、大和村辺りを領地とし(この時期はまだ間切はなかったはずだが・・)、かつ総大将として全体の扇の要の位置にある諸鈍にいたということらしい。ただその後の消息がほとんど伝わっていなくて、行盛、有盛の最期の部分で、「これより先資盛は諸鈍に落ち着いて間もなく他界し・・」と触れられているのみである。


古仁屋出身の民俗学者である茂野幽考は「平資盛城址諸鈍の印象」という文章で、大屯神社を次のように書いている。

海岸にくだる山の斜面に敷かれた白土の道を降りると諸鈍の入口、道は左右に分かれてすぐ近くに平家の南走を物語るおうちょん(平資盛の墓と其の霊を祀る神社)の赤い鳥居が欝蒼と生ひ茂る森の中に緑中紅一點を添へ、森閑として古典風な詩韻を漂はせてゐる。・・(略)
暫く樹立の陰に立ってゐると通りがかりの娘が敬虔な面持で社殿に礼拝を捧げて過ぎた。諸鈍に入る人、出る人必ず此の大屯の森を過ぎねばならぬ。而して諸鈍住民は数百年の間大屯の前を通る度に神と祀られた資盛卿に對し敬虔の念を起し禮拝を捧げ郷土意識を強め、其心意は常に大屯神社の前に浄化され訓育されて今日に及んでいる。
~ 『奄美大島民俗史』(昭和2年発刊)~

多少の誇張はあるにしても、何となく当時の雰囲気を感じることができる。


***続く***

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