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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

震洋隊基地跡 (呑之浦)

島尾敏雄文学碑から遊歩道を先に進む。

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少し行くと震洋のレプリカが置かれた格納壕がある。

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前に案内板。

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震洋

昭和19年4月、軍令部から頽勢挽回用として提案された一から九までの特殊兵器のうちの一つで、マル六の回天とともに実用されたのがマル四の震洋であった。鋼製及び木製の試作艇は5月27日に試運転が行われ多少の改造のうえ、直ちに量産に移された。一人乗りの一型改一は艇首に炸薬を搭載して全速で敵艦船に衝突自爆しようとするモーターボートで、量産のため主機関は自動車のエンジンを使った。のち、指揮艇として二人乗りで機銃と噴進砲を積んだものを並行して量産に移した。
18年8月、第一次震洋隊50隻が長浦(横須賀)での訓練を終わって大蝶舞台として父島に出撃した。その後8月以後、九州の川棚警備隊と江田島の江の浦で訓練を行い、比島、南西諸島、本土各地、伊豆諸島、小笠原諸島、支那沿岸、東南アジア(現地製造)等に敵配備して来攻に備えたのである。これらの搭乗員は、兵学校や予備学生出身の青年士官が隊長となり、各艇員は予科練出身者であった。

 

この日は加計呂麻バス2台に分乗した団体の観光客が訪れていて、お一人に聞いてみると奈良から来たとのこと。

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特攻といえば「神風」とか「飛行機の体当たり」を連想するように、いわゆる航空特攻の印象が非常に強い。戦争を題材にした映画や記録フィルムでも必ずといっていいほど飛行機の特攻シーンが出てくる。(最近見た話題の映画でも特攻隊の迫力あるCG映像をウリにしていた)
実際にはいろいろな種類の特攻兵器が開発されていて、海軍の水上、水中兵器として実用化されたものに、回天(人間魚雷)とこの震洋があり、陸軍でもマルレという震洋に似た特攻艇が使われている。
震洋は最終的には6200隻が建造され、部隊としての震洋隊は146個隊編成された。特攻隊員は1隊あたり50人が原則で、基地要員も含めると190人前後で、震洋隊全体としては、兵力30000人弱、特攻要員7300人程の部隊であった。
このうち実際に出撃したのは、コレヒドール島(マニラ湾口の島)の1個隊、沖縄の2個隊の合わせて3個隊である。震洋部隊の戦死者は2500人と言われるが、多くは輸送船の沈没、上陸米軍との陸戦や誘爆事故によるものだという。
震洋艇はきわめて単純な構造で、ベニヤ板でできたモーターボートに自動車のエンジンを付けたもので、先端に250kgの炸薬を詰め込んでいた。艇の舳が対象物(敵艦)にぶつかったときに舳がへこんで回路がつながり爆発する仕組みになっていたという。
奄美地区では、ここ呑之浦の第十八震洋隊の他に、同じ加計呂麻島三浦に姉妹隊の第十七震洋隊、大島海峡対岸の久慈湾に第四十四震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。
※参考『図説特攻』(太平洋戦争研究会編)

 

この先も遊歩道が続いていて点々と格納壕がある。

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***続く***

 

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