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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

島尾敏雄文学碑その3 (呑之浦)

 ***前回の続き***

 

『はまべのうた』

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峠の上に出ると、眼さきはからりとひらけて近くの島の山々は幾重にもむらさき色にかさなり、遠くの島かげは心に遠くうす墨ではいたようにかなたの水平線に浮び上がってまるで絵のようでありました。そして片方のふもとにはウジレハマが反対の方にはニジヌラが箱庭みたいにちっぽけになって見下ろせるのでした。かぜのあるときには立ちさわぐ潮騒や峠の松籟が子守唄のように峠に立った人々を夢の気持にさせるのでした。お月夜のばんなどにはこの二つの部落はまるで青い青い水底に沈んでいるようでありました。浜辺にはアダンゲやユナキの葉がくれに南の海が静かに波打ってときどき青い夜光虫が光って居りました。
 注 ウジレハマ ー 押角
   ニジヌラ  ー 呑之浦
    「はまべのうた」より

ニジヌラからウジレハマの国民学校初等科に通うケコちゃん、その教師のミエ先生(ミホ)と隊長さん(島尾)の交流を描いた作品である。
作品の最後に「これは昭和二十年の春に加計呂麻島でつくりました。祝桂子ちゃんとその先生のために」とある。このケコちゃんは実在で、『新潮日本文学アルバム・島尾敏雄』に大家族で写した写真が載っている。

この作品は昭和20年5月に島尾が腰に吊っていた海軍士官の短剣とともにミホに渡されたものである。副題に「乙女の床の辺に吾が置きしつるぎの太刀その太刀はや」と書かれていた。ミホは次の歌を返している。

はしきやし加那が手触りし短剣と真夜をさめゐてわれ触れおしむ

往きませば加那が形見の短剣で吾が生命綱絶たんとぞ念ふ

大君の任のまにまに往き給ふ加那ゆるしませ死出の御伴

20年6月、沖縄に出撃する神風特別攻撃隊特攻機が不時着して島尾部隊の基地に避難していたが、この特攻機の乗員が本土に引き返す際に、本土の文学仲間に宛てた作品を託した。この作品はミホが清書して、海軍罫紙25枚の作品をわら半紙2枚に書き納めたという。

復員した島尾は21年3月にミホと結婚、その年の5月に『はまべのうた』を雑誌『光輝』に発表した。このとき副題を「あしたはまべをさまよえば昔のことぞ偲ばるる」に書き換えている。

※参考『南島から南島へ』ー「島尾敏雄・掌編『はまべのうた』について」(寺内邦夫)

ミホが教員をしていたという押角小学校。背後の山の反対側に呑之浦の基地があった。(数年前の撮影でマツクイムシの被害前)

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大平ミホはいわゆるユカリッチュ(支配層にあった由緒ある家系)の娘で、東京の女学校を出た後、島に帰って小学校教師をしていた。

 

『(復員)国破れて』

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一人だけ衛生兵をまじえた百名ばかりの震洋特攻兵を分乗させた三隻の徴用漁船が、奄美群島加計呂麻島を後にしたのは大島防備隊のあった瀬相の桟橋からだった。
 遺稿
  「(復員)国破れて」より

この作品の題名は聞いたことがなく、ネットで探したところ地元の市立図書館にあることがわかった。『コレクション・戦争と文学』というシリーズに入っていたので早速借出してきた。
島尾敏雄が死の直前まで書きすすめていて、未完のまま絶筆となった作品である。10ページほどの分量だから雑誌の連載1回分だろう。先に帰還する特攻兵だけを乗せた漁船が瀬相の防備隊を出て、大島海峡を東シナ海に出るところで終わっている。

島尾敏雄の特攻隊体験の小説は、『出孤島記』『出発は遂に訪れず』『その夏の今は』とこの『(復員)国破れて』の四部作で起承転結を全うして完成すると言う。島尾ミホは「旧島尾部隊の隊員を各地に尋ねて聞き書きを重ね、最終的には加計呂麻島から復員途次の海路は、漁船をチャーターして乗り自分の眼で確かめ、上陸地点の鹿児島県串木野港から解散地の佐世保海兵団に至る陸路は島尾以下隊員たちが通った跡をその儘に、汽車に乗り或いは徒歩を重ねて直接自分の足で辿ってみたいと考えている。・・(略)・・・
・・彼らの扶けを受けて、執筆に際しては島尾の眼を自らの中に甦らせ、島尾敏雄絶筆作品の続きとして書き続けたい。例え幾年の歳月をかけても命の在る限りは成し遂げたい、とひたすらに没頭している」(『島尾敏雄事典』より)
と書いているが、この願いは叶ったのだろうか。

 

***続く***