「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

島尾敏雄文学碑 (呑之浦)

呑之浦トンネルが開通したため今は県道の迂回路になってしまった旧道の方に、島尾敏雄文学碑記念公園への入り口がある。
入口案内板には、島尾敏雄三回忌を期して文学碑建立が具体化し、1988年7月に建立委員会が発足、文学愛好家、郷土出身者、震洋隊関係者、地元住民の寄付により、同年12月に除幕式が行われたと書かれている。現在は瀬戸内町が文学碑の維持管理と震洋隊基地跡の保存に力を尽くしているそうだ。

下は公園の案内図。

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中央の広いところに文学碑があり、島尾隊の本部があった場所でもある。

 

少し先にかなり広い駐車場があり、そこから公園内に入っていく。

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すぐに広い場所に出て奥の方に文学碑がある。

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※撮影したのは1月末で緋寒桜が満開の時期

 

周囲を囲むように島尾敏雄の作品の抜粋などが書かれた碑が建っている。
島尾敏雄のことや当地との関わりについては碑文に簡潔に書かれているのでそのまま転載する。

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島尾敏雄について
1917年(大正6)、横浜で出生。幼少の夏?は父母の故郷・福島県相馬郡でよく過ごした。43年(昭和18)九州大学東洋史専攻)を繰り上げ卒業、海軍予備学生となり、翌年マルヨン艇特攻要員に任ぜられ、第十八震洋隊指揮官として呑之浦に基地を設営、出撃(死)を待った。この状況のなか押角の大平ミホと出会い、生と愛が燃え輝いた。震洋隊は発進しないまま、敗戦。ここでの極限の体験が島尾文学の基になったと言われる。46年(昭和21)神戸でミホと結婚。伸三とマヤが生まれる。生涯引越しを続け旅のような人生であったが、55年(昭和30)から75年(昭和50)までの20年間、名瀬に住んだ。凄絶なまでの愛の高みを祈り刻んだ「死の棘」などの小説のほか、詩、随筆、対談、歴史家の眼での文化論、ヤポネシア論など出版されたものは多い。芸術院会員。第1回戦後文学賞芸術選奨、日本文学大賞、谷崎潤一郎賞川端康成文学賞野間文芸賞、多くの新聞社の賞など、著名な賞は殆ど受賞。
新しく切り拓かれる大きな仕事への期待は、86年(昭和61)11月、鹿児島市での突然の死によって断たれた。今、福島県相馬郡に眠る。

 

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建立趣旨
この地呑之浦が島尾敏雄と巡り合ったのは、昭和19年11月。島尾は、第十八震洋隊隊員183名を率い、呑之浦の入江深く、基地設営のために上陸した。島尾は、震洋特攻隊長としていつ捨てるかも知れぬ命を背負い、死への準備にいそしむ日々を生きていた。押角国民学校に勤める大平ミホに出会ったのは、そんな戦争状態の中にあっても、時として訪れる平穏な一日であった。島尾の特攻出撃とともに、二人の青春はこの地に散るはずであったが、敗戦により思いがけない生を得た。
戦後、文学史上に残した島尾の仕事は、ここでの体験を抜きにしてはけっして語ることができない。三回忌を迎えたいま、島尾敏雄の業績をたたえ、それを記念するために、ゆかりの地呑之浦に文学碑を建立する。
  1988年12月4日
  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 

文学碑から海岸に向かって真っすぐの通路がある。

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こちらは県道側から見た呑之浦の入江。

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加計呂麻の海峡側はこういう深くて狭い静かな入り江が多いが、その中でもこの呑之浦は格別である。

島尾敏雄に『魚雷艇学生』という作品がある。主人公(私)は昭和18年9月に海軍兵科予備学生となり各地で訓練を受けた後、昭和19年11月に佐世保から鹿児島を経て大島海峡に到着する。最終章の最後にその時の様子を書いている。専門家による情景の描写を味わいたい。
「幸運な、としか言いようのない偶然の重なりで辰和丸は昭和十九年十一月二十一日、奄美大島加計呂麻島の間の多くの岬の入り組んだ静かな大島海峡に辿り着くことができた。海峡も両岸の岬の山々も、折からの小雨でしっとりと濡れそぼっていた。・・・・・・・・
・・予め基本的な設備を既に設けてあると聞いてきた基地は、南海の島かげに奥深く眠るが如くに横たわる、山上湖ともまごうおだやかな自然のままの入江であって、浮標一つ用意されてはいなかった。澄み切った入江の青い海は、両岸の樹木の影を深々と写し、古代さながらの清らかな静けさに満ちていた。私はどれ程そこに基地の施設などは作らずにいつまでもそのままにそっとして置きたい思いにかられたことか。しかし既に特攻隊の基地として定められた以上、両岸の樹木は次々と伐採され、兵舎が建てられ、特攻艇の格納壕としての三十メートル以上も奥行のある横穴が、十二個も掘削されなければならなかったのだ。」

 

この入江は基地のあった場所からさらに先の集落の方まで続いていて、一番奥の方は干潮になると完全に干上がってしまう。

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****続く****

 

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