「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

神屋登口 (三太郎峠)

***前回の続き***

三太郎茶屋から元の国道に戻って三太郎トンネルの方に少し進み、トンネル手前を左に入ってすぐのところに石碑が建っている。
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古道三太郎峠・神屋登口」とある。右側に三太郎峠の由来がある。こちらは茶屋跡のものより簡潔なので、重複する箇所もあるが全文書き出してみる。

三太郎峠の由来
明治二十年(1887)に当時の須垂方(すたるほう)と住用方を結ぶ峠越えの新道が計画され、明治三十二年(1899)には川辺町(南九州市)出身の農業指導員、畠中三太郎がこの峠に茶屋を建てた。
民俗学者柳田國男大正九年(1920)にこの峠を訪れ『海南小記』に次のように記している。
「三十年前に内地人の夫婦が、この峠に茶屋を建てて付近の林を開墾し始めた。肥後から薩摩に超える三太郎峠とは違って、これは爺の名にもとづいて三太郎峠と呼ぶようになったのである。それほど世に聞こえた三太郎ではあったが、彼にも相談せず世の中は変った。
人々が永く生活道路として歩いたこの峠は、歴史の道として今に残る。
 平成二十一年(2009)十二月吉日 クぃンムン村

これも茶屋跡の碑と同じくクぃンムン村が建てたものだ。

階段を登ると先の方に細い道が続いている。
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多分さっきの茶屋跡に続いている筈だ。こういう道が保存されているのは有難いことだが、今回は歩くのはパスする。

 

柳田國男沖縄諸島を巡った後、大正10年2月7日に名瀬に到着。2月8日に名瀬を出て、和瀬峠で酒の振る舞いを受けて三味線を聞き、三太郎峠を越えた。その日は西仲間で富士屋旅館というところに泊まっている。

『海南小記』の「三太郎坂」という節には、
西仲間から昇る坂があまりまっすぐで左右に余地がないために、もう第二の新道はこの峠を通らず、おめいても届かぬような遠方の山をうねっている
とあり、「まっすぐな坂」というのはこの古道で、「遠方の山をうねっている」のは現在の旧道のことを指しているのだろう。

柳田は翌日は、網野子峠、地頭峠を越えて古仁屋に泊まり、その後加計呂麻島に渡っている。

 

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