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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

昇曙夢胸像(芝)

 西北から東南に向かって伸びている加計呂麻島の中で、最も北に位置するのが芝集落である。薩川から県道安脚場実久線と別れて、薩川湾沿いに進んでひと山越えたところに集落がある。

中ほどに本ブログのテーマでもある「大奄美史」の著者、昇曙夢の胸像が建っている。

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木立の中、公園のような草地になっていてベンチも置かれている。入り口の案内板が倒れていたが、読んでみる。
昇曙夢先生のご紹介
先生は本名を直隆、号を曙夢と称し、明治十一年七月瀬戸内町芝に生まれました。幼少の頃から向学心にもえ、明治二十八年上京、同三十六年ニコライ露語学院長をはじめ、早稲田大学日本大学、陸軍幼年学校等の講師を兼任、大正五年陸軍士官学校の教授となり、昭和十七年退官されましたが、その間、朝日、毎日、○○南㷀各新聞社や、内務省陸軍省、内閣等の嘱託を歴任され、国家社会のために大いに貢献されました。
ソ連に留学すること四回一九二八年のトルストイ誕生百年祭には、国賓として招待の栄誉に浴し、世界的ロシヤ文学の○○社として名声を博しましたが、特に昭和二十年刊行のロシヤソヴエト文学史」は讀賣文学賞日本芸術院賞の栄冠に輝き奄美が生んだ偉大なる文学者として一世を風靡いたしました。
又、人一倍愛郷心に燃えた先生は、公私多端の中にも常に教理を忘れることなく、郷党の啓発向上に心血を注ぎ努力され、東京奄美会、瀬戸内会、実久村会等の会長にも就任され、身をもって後進の指導に当られ、郷党の師父と仰がれました。
先生は学生時代から郷土史の研究にも心がけ、昭和二年南洲翁五十年祭を機会に「奄美大島と大西郷」を出版、その後昭和十五年で東京奄美文化協会が設立されるや、その会長に就任され、同協会の事業として、昭和二十四年不朽の名作「大奄美史」を刊行し、奄美の名を広く公開しました。
さらに先生の偉業の中で忘れてならないのが、昭和二十八年の民族の叫び「奄美の祖国復帰」であります。
国内外十万同胞が一致団結して行った復帰運動に際し、先生は、奄美大島復帰対策全国総委員長として活躍し、病身をおして献身的に尽力さり、その功績は永遠に復帰史に残るものと思います。
これら数々の業績を残して先生は、昭和三十三年十一月鎌倉市稲村ケ崎の自宅において八十一才をもって逝去されました。
以来十七年、先生を慕う多くの人々の間に先生を奄美の鑑として顕彰したいと念願してまいりましたが、今般、遅ればせながら先生の「胸像」を生誕の地「芝」に建立して、幾久しくその徳を後世に残すことになりました。

 

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胸像の台には「昇曙夢先生」とだけ書かれている。裏に碑文が埋め込まれているが、ほぼ入口の案内板と同じ内容である。

 

昇曙夢氏(本名昇直隆)は明治十一年にこの芝に生まれ、尋常小学校卒業後、当時大島に2つしかなかった高等小学校に進学した。古仁屋にあった高等小学校(後に篠川に移転)は西校と呼ばれ、直隆は親戚の家に下宿をして通学した。
高等小学校卒業後鹿児島師範学校を受験するが失敗。この頃はカツオ漁の餌になるキビナゴの生簀を見張る番小屋で寝泊まりして家計を助けていたという。

明治二十八年に知人の紹介を受けて鹿児島のキリスト教の一教派であるハリストス正教会に身を置くことを決意、周囲の反対を押し切って加計呂麻島を離れた。
東京に出て名をなしてからも、終生郷土のことを忘れることはなく、『大奄美史』も郷土の同胞に対する叱咤激励のことばが随所に出ている。最終章は以下の歌で締めくくられている。
 鎌倉の春に立ちたるユウカリの心は遠くふるさとに行く
 磯に立ち遠古里の思ひ出に更くるや潮のみちひも知らに

 

胸像のすぐ前は芝の浜と桟橋。

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