「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

実久三次郎神社(実久)

薩川から一山越えて実久集落へ入る手前に実久三次郎神社がある。実久三次郎は伊豆大島から琉球へ渡る途中に立ち寄った鎮西八郎為朝と地元の娘との間に生まれたといわれている。
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墓の前の階段なども整備されて以前よりかなり改修されているようだ。鳥居手前に案内板。
実久三次郎神社由来
今から約八百年前の永萬二年、源為朝が喜界の小野津港に上陸して、一軒家を訪れると美しい娘が機織りをして居った処、為朝の顔を見ると「貴男は八郎殿ではないか」と話かけてきたので、為朝はびっくりした。この島で自分を知っている物がいる筈はないと問い返した処、昨夜の夢で貴男が尋ねて来ることを知らされたと申し、それが縁となり夫婦の契りを結び一子を儲けた。為朝は喜界に戻っては十分な勢力を造ることが出来ないと感じ、小野津に神社を造って喜界を離れ大島北部に上陸したと伝えられ、これが喜界の小野津神社の由来とされています。
その後、為朝は本島を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂麻島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。鎮西八郎為朝の子、実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられている石が二基、当神社に安置されているのでありますが、此の石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
第五十六代清和天皇源為義源義朝源頼朝
             -源為朝―源実久三次郎

 

実久三次郎を祀る社殿。
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境内左側に実久三次郎の墓。
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「鎮西八郎為朝公乃子・実久源三次郎公之墓」とある。

さらに奥の一段高いところにもう一つの墓石。
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「鎮西八郎為朝乃妻・実久ナベシリカナ之墓」とある。

三次郎が力比べをしたという石。
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一番左は踏ん張ったときの足型か。

 

 『奄美加計呂麻島のノロ祭祀』(松原武実)によると、実久三次郎神社は「実久三次郎の御霊とオボツ神を合祀して、四十人組が中心になってムラで明治37年に建立」したものである。四十人組とは、三次郎の財産や家宝を守るために、三次郎の末孫有志が組織したものという。

 

為朝伝説は平家伝説と並んで琉球支配以前の大島の歴史を彩る二大ロマンである。平家の伝承は落延びてきた武将たち一代限りであるが、為朝伝説の方は、鎮西八郎為朝の南島下りと豪傑・怪力の実久三次郎の伝承がセットになっている。

 為朝伝説によれば、為朝は大島から徳之島、沖永良部島を経由して琉球に渡り全島を征服する。為朝と按司の妹との間にできた子が、後の琉球建国の始祖舜天王だという。

義経が大陸に渡って成吉思汗になったという話を思い出させるような荒唐無稽な感があるが、・・・

『大奄美史』では、「為朝の南島下りについては大島や琉球には各島々に豊富なる伝説や遺跡が点々と残っていて、その渡来の事実はほとんど疑う余地もないくらいであるが、・・・」とあり、かなり肯定的な見方である。

 

 これは実久三次郎神社から見た集落の風景。
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実久の海。加計呂麻の海岸の中でもマリンブルーが特に美しい。
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