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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

重野安繹流謫の地 (阿木名)

阿木名の 集落に入るが場所の見当が全くつかず、国道のそばに車を止めて、歩いている人がいたら聞いてみるつもりで民家の間を海の方に進んでいく。海岸沿いの道路まで出て周りを見回すと、幸運にもすぐ右側に重野安繹居留跡の碑が建っている。

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「重野安繹先生流謫の地・寺子屋跡/安政八年~文久三年」と書かれている。きれいな広場が残っているが、建物跡らしきものは何もない。

 

 

ベンチの後方に案内がある。

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少し長いが、分かりやすく書かれているので、そのまま書き出してみる。

   重野安繹(しげのやすつぐ)
 1827(文政十)年鹿児島郡阪元町に生まれました。
 若いころから学問に秀で、藩費を受けて江戸に出て学問を修めるほどでしたが、帰藩してまもなく、同僚の金の使い込みによって罪を得て、31歳のときに遠島になります。
 重野が乗った船は久慈に着き、上陸後、勝浦を経て阿木名に移り住みます。重野は阿木名の有志達に要請されて、青少年に学問を教えるための私塾をこの海沿いの地に開きました。漢籍を講じるなどその教化は近隣の村々にも及び、阿木名は学者村として優秀な人材を輩出する集落として名をはせました。門弟として泰山英俊、鼎宮祥喜、森賢省、泉長旭、南喜美隣らが学んだそうです。
 当時、重野は龍郷に流謫中であった西郷隆盛とも旧交を暖め、相互に訪問しあっていました。また、土地の娘ウミを妻にし、一女の娘ウヤスをもうけます。安繹は天下に名を知られる文学者となってから島を訪れて引き取っています。
 6年あまりの阿木名での生活の後、許されて帰藩した重野は、西郷隆盛の後任の御庭役となり、生麦事件を発端とする薩英戦争の終結にむけて、イギリスと談判して決着へと導きました。その後、歴史家、漢学者として考証史学を推進して学問を深め、近代史学の礎を築きました。
 日本ではじめての文学博士。東京帝国大学名誉教授。
 没年1910(明治四十三)年、行年八十四。

 

平成22年、没後100年記念に阿木名集落会により建てられたとある。

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前は伊須湾。きれいな景色である。

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『大奄美史』では、阿木名にいた重野は西郷の下島を聞いて、「十里の山路を遠しとせず度々西郷の許を訪れては互いに謫居の無聊を慰めあった」とある。  

その頃の道路事情からして、 阿木名から龍郷まで歩いて行くというのはちょっと想像を絶するものがある。