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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

昭和天皇行幸 (4)古仁屋ご上陸

 *** 名瀬の次は次は古仁屋編 ***

 

昭和2年8月6日、名瀬港を出発した御召艦は大島海峡を通って午後7時古仁屋港に入り、翌日ご上陸された。

高知山から大島海峡(油井小島、薩川湾方向)を見る。

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同じく高知山から古仁屋市街地方向。

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古仁屋での日程は以下の通り。
八月七日(日曜)
午前八時五十分 艦載水雷艇ニ御乗艦
午前九時    要塞司令部桟橋ヨリ御上陸
 (徒歩十分)
奄美大島要塞司令部(三十分)
  拝謁
  奏上
  (徒歩五分)
古仁屋尋常/高等小学校(十五分)
  成績品等御覧
  萬歳三唱
  (徒歩十分)
御展望所(高千穂)(十分)
  御展望
午前十時四十分 要塞司令部桟橋ヨリ御乗艦
同  十時五十分 御帰還
        古仁屋港御停泊
 (午後一時半板附船競争)
 (午後二時より御微行ニテ薩川湾ヘ)
 (同七時半-九時半篝火)

八月八日(月曜)
  御微行ニテ池間へ
  午後四時古仁屋港御出港
    (手旗奉送)
 ~『奄美大島行幸記念写真帳』(鮫島新聞舗発行)から ~

日帰りの慌ただしい名瀬滞在に比べると、古仁屋では2泊3日のゆったりとしたご旅行である。公務だけでなく趣味の生物学研究もされている。

『大奄美史』でもこの古仁屋行幸については地元の熱狂ぶりを取り上げている。
山城が曾津高崎燈台の沖を繞って静々と大島海峡に入った頃から、御召艦を遥拝せんとして集まる数万の民衆は、文字通り古仁屋埠頭を埋めてしまった。・・・・古仁屋始まって以来の歴史的光景を呈した。
・・
あくれば七日、密雲深くたれこめていたが、旭光雲間よりもれ始め、御召艦のメーンマスト深く天皇旗は燦としてひるがえり、日章旗はためく道筋の両側には三万の奉迎者が幾重にも列座している中を午前九時陛下にはいとも身軽に軍用桟橋へ御上陸・・
  ~『大奄美史』から~

 

水雷艇から上陸後、奄美大島要塞司令部に向かわれる。
要塞司令部は現在の古仁屋高等学校の場所にあった。
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校門の横にひっそりと要塞司令部跡の碑がある。

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要塞司令部は、大正9年大島海峡東口(皆津崎・安脚場)、同西口(西古見・実久)の砲台陣地構築と共に施設工事に着工。大正12年砲台工事に先駆けて開庁した。

行幸があったのは、まだ開庁間もない時期である。
太平洋戦争末期には敵機の目標となり爆撃を受ける。周囲の塀に無数の弾痕が残っていたという。昭和24年古仁屋高等女学校と古仁屋青年学校を統合して古仁屋町実業高等学校を設立し、この地に移転する。昭和25年奄美群島政府立古仁屋高等学校、昭和28年に奄美島の日本復帰に伴って鹿児島県立古仁屋高等学校となる。