「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

朝虎松の碑 (西古見)

奄美で最初に鰹漁業を興した人、朝虎松の碑を見に行く。

古仁屋から海岸線に沿って西へ西へ。ようやく長い大島海峡を抜けて東シナ海に出る。加計呂麻島の先端には江仁屋離が浮かんでいる。
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あいにく霞んでいてあまりきれいに見えない。

 

西古見集落の沖には立神と呼ばれる岩が3つきれいに並んでいる。
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外側の岩をウキヌタイガミ、真ん中の岩をナハンタチガミ、磯に近い岩をネィトヌタチガミと呼ぶそうだ。(瀬戸内町役場ホームページより)

 

西古見集落に入ったところでちょうど道端で仕事をしていた女性がおられたので石碑の場所を聞いたところ、言葉で説明するのは難しいからと親切にも車に同乗して案内してくれた。
集落の東側の外れの方の公民館のそば、かなり高い石段の上の樹木に囲まれた中に、朝虎松の碑がある。

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朝虎松○○碑
朝君名虎松以明治二年十二月二十日生干大島郡西古見為人質○
勇敢○○改善漁業之志○先是肝○郡佐多村之人前田孫吉氏始來
漁堅魚干曽津○海君同乗其○以講究漁獲之方○來糾合同志○造
漁○而漁堅魚於○浄近海是為堅魚○普販出於各地為爾来産○漸
加以至於今日致其年○○超越於二百萬金○凡斯業推移之○君○
○○力改造漁船漁具或○○○○○之方皆得擧實績以澤於後人○
是以往年大島郡水産組合有開○業二十○○祝賀會於西古見所表
○君之功績○後君○為人所請往沖縄○従○於漁業疾暴起而殆實
大正十一年五月五日○享年五十有四君○山元氏有二男六女長男
○家女嫁者三○○在家嗚呼天不○○徳君○志而逝於客土○○可
○○○○者族人将○葬君西古見先人墓側○水産組合員亦更謀欲
建碑○君之功績傳諸後世來○文余○乃應需而記之云
大正十三年三月
鹿児島縣立大島中學校教諭赤松定郷撰○書

かなり字が薄れている上に漢字ばかりで読み取るのが難しい。

 

鰹漁業の始まりは明治三十三年、鹿児島県肝属郡佐多村の前田孫吉という漁師が西古見を根拠地にして漁をしたところ七十余日の間に一万尾の鰹の漁獲があった。朝虎松はこれに乗り込んで漁法を習得し仲間を集めて組合を組織して収益を上げることができた。これを契機に一気に鰹漁業が勃興して一時は近隣の村を合わせて百三十隻の鰹漁船が操業していたという。やがて漁船は帆船から原動機付きに変わり、本土の漁業者との競争や鰹漁獲高の減少もあって、戦後は再び栄えることはなかった。

~大奄美史より(要約)~

 

瀬戸内町図書館・郷土館のホームページによると、「虎松の業績と人柄をしのんで、大正3年(1914年)に西古見の高台に記念碑が建てられた。彼に厚い信頼をおいた、大島水産組合員一同の手によるものである」とあるが、写真の碑は大正13年(虎松の死後)に建てられているので、これ以外にも碑があった(または今もある)ということらしい。

 

公民館の前を通って海の方へ行くと「鎮魂之碑」と書かれた慰霊碑がある。
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石灯籠の脇に碑文。
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碑文
私たちの祖先墳墓の地西古見はかつて本郡における鰹漁業発祥の地として明治大正のころ、空前の繁栄を誇っていた。
それが陰りを見せ始め、次第に衰退の一途をたどるようになったのは、大正元年以来の数次にわたる漁船の遭難、なかんずく大正十五年九月十六日の台風による寶納丸と漁寶丸の遭難であった。
この碑はこれら西古見繁栄の犠牲となり、思いを懐かしいふるさとの山河と愛しい家族に馳せつつ、千尋の海原に無念の最期を遂げられた漁船員三十五名と、併せて民主的平和国家新日本建設の礎として、太平洋戦争にその尊い生命を捧げられた西古見出身の方々五十七名の氏名を記し、そのみ霊を慰めるとともに後世における集落の発展をこい願い、この地に生を受けた者たちがその浄財を寄せ合って建立したものである。
昭和六十年神無月
西古見漁業遭難者普びに戦没者鎮魂之碑建立委員会

隣に漁業遭難死亡者35名の氏名が、船名、遭難日、年齢と共に記されている。
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最年少が16歳、他に18歳、19歳が2人ずつ。
大正15年の寶納丸、漁寶丸の遭難者が圧倒的に多い。この頃は漁獲量も減って沿岸から離れて遠くまで大型の遠洋漁船で出て行った時期とも符合する。

 

大正11年2月加計呂麻から古仁屋に戻った柳田國男は、再び乗船して西古見に上陸している。
西古見の寄留人、徳ノ島の人も多し。されど此村は色々の人物を出したるた為、人心漸く高尚になり、今は模範部落にならんとしつつあり。
~「南島旅行見聞記」より~
「徳ノ島の人も多し」というのは、鰹漁業の漁師として徳之島からの出稼ぎ者が多かったことを言っているようだ。

 

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