「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

高千穂神社 (思勝)

 開饒神社と隣り合わせ、右側一段高いところに高千穂神社がある。開饒神社が西向きなのに対して、高千穂神社は90度左回りに回転したような形で南を向いている。何か意味があるのかどうか分からない。

参道からは神社の側面(拝殿と神殿)が見える。
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神社の境内。開饒神社はこの社殿の背後にある。
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拝殿入口が開いていたので中に入る。祭壇の両側にあるのは錦旗か。映画やテレビドラマの戊辰戦争の場面が思い浮かぶ。
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以下は県神社庁のホームページから。
神社名:高千穂神社
神社名カナ:タカチホジンジャ
鎮座地:〒894-3104 大島郡大和村思勝15
例祭日:六月二十三日
祭神
瓊瓊杵尊(ニニギノニコト)
・應神天皇(オウジンテンノウ)
市杵島姫命イチキシマヒメノミコト)
由緒
明治二年六月十九日に思勝村尾神山の麓に村社として創建された。明治四十三年四月十一日に無格社厳島神社を合祀した。厳島神社は境内の御手洗鉢の銘により享保十九年以前の創建と考えられる。
現在のコンクリートの社殿は平成二年一月三十一日に竣工した。(なお、昭和二十九年の宗教法人の登録時に高千穂神社の御祭神が誤って伝えられ、県の台帳にも主神が神武天皇となっている)

 

境内にある手洗鉢は合祀された厳島神社にあったものらしい。
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寄進された日付は「十二月吉日」と読めるが、肝心の年号の部分は傷んでしまって全く読み取れない。

この高千穂神社は明治二年の創建なので、これは「大奄美史」の、
「明治二年(1869年)には島内に高千穂神社を各方限に一社ずつ十三社建立して神社崇拝を強調した」
という文章と符合し、この時に焼内間切大和浜方に建てられたものと分かる。

 

境内に案内がある。
高千穂神社
明治三年六月十九日高千穂神社ヲ思勝村尾神山ノ麓ニ建立セリ
明治三十二年調社寺県社以下大島郡
神社明細帳第十二号
大島郡大和村思勝村字尾神拾五番
社格村社
高千穂神社
一、祭神 天津彦火瓊々杵尊及應神天皇 (あまつひこほのににぎのみこと)
合祀祭神市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
一、由緒  明治二年六月十九日鎮
一、社殿  間数間口弐間弐尺、奥行弐間
一、拝殿  間口弐間奥行弐間三尺
一、境内  坪数弐百七拾三坪官有地九畝三歩
一、氏子  戸数八百拾三戸
一、管轄廰迄ノ距離 九拾九里廿九町四拾七間
明治四十三年四月十一日指令甲一第四二号ヲ以テ大和村思勝字尾神
神社無格社厳島神社ヲ本社へ合祀
この謄本は原本と相違ないことを証明する。
昭和六十三年九月十四日
鹿児島県知事 鎌田要人

厳島神社
抑藩主島津氏ガ奄美大島を統治し生殺与奪権利が其の掌中にありし其の昔砂糖は唯一の産業にして政治は砂糖増収より外ならざる如し峻厳なる法を設け砂糖積出港には番小屋を置き(堅固なる建物なり)黍横目をして監視せしめ一升たりとも密輸出を得ざらしめ甘藷一本たりとも喰ひ潰しを厳禁し犯すものは○巻首車等の罰に処せられたりと言ひ伝へられる。享保年間より己に多額の積出ありたるは疑ふべかざる事実にして此の時の遺跡により川智翁は事跡の考証ともなり且本社(厳島神社)の由緒を○明さる。一事あり其れは思勝区字尾神山山麓に一小祠ありたり厳島神社と称せしが明治四十三年四月村社高千穂神社に合祀せり御手洗鉢壱基(山川石)今は神体と共に合祀と時移されたり彫刻の文に(享保拾九年山川紀彦右衛門十二月吉日奉寄進)とあり案ずるに、大和浜法眼は川智翁揺籃の地甘蔗初稙の地大金久西浜は地味肥へ繁殖力著しく己に曽孫嘉智は製糖術を研究し時の代官海江田諸右衛門より褒章を受けたる程なるを以て藩主御用船は津名久港に積載の為め既に享保年間に出入せしのにして彼の紀彦右衛門は御用船の船頭にてありしならん即ち航海安全の祈願の為め指宿山川港(藩主御用船初め大島沖縄航路の根拠地にして山川石の産地)にて彫刻せしめ是れを航海守護の神厳島神社祭神杵築島姫ノ命)に寄進せしものなるや動すべからざる確証にして本社は享保年間か亦それ以前建立なるや明なり。
厳島神社の文章は句読点なく行替えなく文の切れ目なく何を言っているのかすぐには理解できない。手洗鉢は御用船の船頭が指宿山川港で造ったものを航海安全のために享保年間に寄進したもので、神社の創建はそれ以前であるということのようだ。

なおも続く。

明治からの宗教
神社
1866年(慶応4年)の神仏分離令によって薩隅は平田篤○(国文学者、秋田出身)の感化を受けた門下(徒)の有力な志士が頗る多くて神仏分離廃仏毀釈に乗ずる好い機会でもあったのだろうが、鹿児島本土の廃仏毀釈は徹底的なもので今もなおその面影がはっきりと浮出しにして残されている。その波がこの奄美の離島まで及んだようである。これらの事情を明確にした記録は当地に残されていないが大島の名家である墓に仏像型の墓碑が残されている。その仏像の首が打欠かれたり手が欠かれていることから見ても鹿児島本土の古い残寺の跡と同じく、赤木名観音寺大笠利の墓その他の墓や竜郷の田畑家の墓等にその跡が残されている。このような廃仏毀釈の後に明治二年は奄美の名所に神社が置かれることになる。

廃仏毀釈については「大奄美史」に、
「廃物希釈の政府の命令も薩藩では他藩よりも徹底的に行われたようだ。・・・今残っている仏像はていてい首なしであるか、或いはいったん落とされた首を漆喰などで不恰好につけたものかである。」

と書かれており上の文章と符合する。

拝殿の扉には、宮司さんの書かれた神社の存続の危機を訴える張り紙があり、神社の維持運営の難しさを伺わせる。

中に、御成敗式目貞永式目)の

「神は人の敬により威を増し、人は神の徳により運を添う」

という条文を引用している。
御成敗式目は当時の日本人の中にある常識や道理を元にしてそれを条文化したものとも言われるが、800年も前のものと思われないくらいだ。聖書も経典もない神(日本の神様)と人間(日本人)との関係の本質を衝いていると思う。

 

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