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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

丸田南里の墓 (井根町)

井根町の辺りを歩いていて偶然、電柱に丸田南里墓と書かれた案内を見つける。
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奥の白い手すりの階段の上に墓地がある。

墓地の一番奥の階段を上がる。
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墓碑とその隣に石仏がある。
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墓碑中央に「丸田南里」と彫られているが、両側の文字は読みとれない。
石仏があるのはどういう謂われなのか分からない。

 

明治政府は明治6年に黒糖売買を自由化したにもかかわらず、鹿児島県主導で大島商社を設立して実質的に藩政時代の総買上制を継続していた。
丸田は名瀬の生まれで、慶応の頃白糖製造機械設置のため来島した英国技師ガバラに伴われて十五、六歳の時英国に渡り、・・・(略)
彼はこの間英国並びに清国を遍歴して、新空気に触れ、自由民権の空気も解していたらしく、常識に富みかつ気概があった。(略)
人民がつくる生産物はその好むところに売り、人民の要する品物はその欲するところに購入すべきは理の当然であって、ひとり鹿児島商人の束縛を受ける道理はないと説き、すみやかにかかる契約を解除して勝手商売(自由売買)を行うべきであると主張して、島民有志の決起を促した。
~ 大奄美史より ~
丸田南里の登場は、長い間の圧政で支配されることに慣らされてしまった島民の眼を覚まさせ、その後の請願運動につながっていく。丸田は明治19年39歳で死去している。

 

また、「碑のある風景」(籾芳晴)では、この墓地について、
名瀬市旧墓地の細道をわずかに入ると、老松の巨木が見事な枝ぶりを見せる。おの松の日陰を10メートルも進めば、古びた墓と小さな座像がある。
民家が墓地に食い込むように軒を並べているが、百年間にわたってその移り変わりを見て来た墓碑の主こそ、明治初期西南戦争の動乱の中で新しい時代の到来をつげる「勝手世騒動」を組織した風雲児・丸田南里である」
と書いており、この墓地の雰囲気を伝えている。

 

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