「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

赤木名観音堂の碑

赤木名中学校の裏の高台、秋葉神社の前を過ぎると赤木名グスクの碑と並んで赤木名観音堂の碑(右側)が建っている。
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この碑は非常に古く文字は全く読み取れない。

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手前に碑文がある。
赤木名観音堂
赤木名観音堂は延宝3年・1675年に建立され、文政2年・1819年伊津部に移転するまでおおよそ144年間、この地に士民強化の殿堂としてその偉容を誇っていた。
この碑は観音堂開山時の住職の墓碑である。和尚は開山のとき来島その労にしたがい、元禄3年まで15年間、そのすぐれた禅学の道で士民の教化にはげみ、この地で天寿を終えたのである。
開山300年を記念し墓碑を再建はるか南海の孤島の士民の信教に殉じた遺徳を顕彰する。
昭和51年10月吉日
笠利町長 朝山玄蔵


ここにあるのは、赤木名観音堂初代住職の墓碑らしい。住職の名がないのは伝わっていないためであろう。

大島では旧藩時代に補陀山観音寺が笠利間切赤木名にあって、民謡「赤木名観音堂」と共に広く人口に膾炙している。鹿児島県福昌寺の末寺曹洞宗に属し本尊は正観音(坐像)で作者は詳かでない。開基年暦や開山僧の名は伝わらないが、慶長以後の建設にかかることは明らかである。初め名瀬間切大熊村にあったが、二度も火災に遭ったため、後赤木名に移り、さらに文化の頃名瀬村伊津部に移ったと伝えられる。
~ 大奄美史から ~

当時島民に仏教が普及していたわけではなく、主に薩摩藩士や流人達のためのものだったらしい。
明治初年の廃仏稀釈は薩藩では他藩より徹底して行われ、補陀山観音寺は破壊されることとなる。

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