「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

大島奉行所跡 (笠利)

 藩政期に大島支配の拠点となった奉行所跡を訪ねる。

奄美空港から県道を北へ。小高い丘のモダンな教会の横を過ぎてすぐ、笠利集落の手前から小道を少し入ったところに大島奉行所跡がある。

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入口の案内板には、
昭和46年町指定文化財
琉球王朝から薩摩藩の直轄地となって大島全体の行政機構がここに置かれた。慶長18年(1613年)寛永10年(1635年)の22年間大島統治の拠点となった。現在は石垣だけがその名残をとどめている。
奄美史教育委員会・笠利町歴史民俗資料館
とあり、中に入ると案内板の通り石垣に囲まれた空地が残っている。

石垣は相当古い。
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石垣越しに空地を見る。
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案内文の通り、本当に石垣しか残っていない。

 

薩藩治下の中央組織は、代官1人、横目1人(後2人)、附役2人(後3人)、書役数名であり、書役以外は藩庁から派遣された。代官は13代までは奉行と呼ばれていた。

『大奄美史』では、
慶長十八年(1613)法元仁右衛門初めて代官奉行として赴任してから、その役宅を本仮屋と称し、横目付役の役宅を仮屋といった。本仮屋は慶長十八年初めて名瀬村大熊に建てたが、寛永十四年笠利間切赤木名に移し、同十六年また元の大熊に移し、慶安二年再び赤木名に移した。同四年また大熊に移転し、延宝元年三たび赤木名に移した。寛政十三年(1801)に至り名瀬村伊津部に移し、爾来名瀬を以て大島統治の中心とした。

とあり、現地の案内文とは異なっている。この通りだとすると、ここ笠利には奉行所はなかったことになるが・・・・。

 

不審に思って調べてみた。どうも藩政期に作成された資料によって相違があるようだ。
『大島代官記』では、慶長十八年(1613)笠利村から始まって、名瀬大熊村~赤木名~大熊村~赤木名~赤木名金久村~名瀬伊都部村へと続く。一方『大島私考』では、慶長十八年(1613)名瀬大熊から始まって、笠利赤木名金久村~大熊村~赤木名金久村~大熊村~赤木名村~名瀬伊都部村へと続いている。
 ~瀬戸内町誌(歴史編)から抜粋して要約~
年代も最後の享保元年(1801)名瀬伊都部村への移転を除くとほとんど一致していない。

現地案内は『大島代官記』、『大奄美史』では『大島私考』を基にしているようだが、本当のところはどうなのかよく分からない。
仮屋が度々変わっていることについて『大島私考』では、「・・・其舎は人の屋敷を借りて旅宿とする故転住する事甚自由・・・」とあり、引越しするのはあまり大したことではなかったらしい。

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☆『大島私考』・・・・大島代官として赴任した薩摩藩士本田孫九郎が在任中に記録した大島地誌
☆『大島代官記』・・・慶長十八年以後の代官の氏名や著名な出来事を記した資料。筆者不明

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