「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

亀津断髪の碑(亀津中学校)

大瀬川沿いの亀津中学校の校舎の前に、亀津断髪の碑(塔?)というのがあります。

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亀津断髪と書かれていいます。昭和42年の卒業生が卒業記念として寄贈したそうです。まだほとんど傷んでなくて、真新しいように見えます。

断髪令(正式には散髪脱刀勝手令)が発布されたのは、明治4年のことですが、本土でも見たことがない断髪を記念する碑が、どうして徳之島のあるのか、ちょっと不思議です。

 

明治になって文明開化を進める日本ですが、西洋人からみて、昔ながらのちょんまげ姿というのは未開人でしかなく、侮蔑の対象だったようです。不平等条約の改定を目指す木戸孝允などは、何とか日本人の頭からちょんまげをなくそうとします。

明治4年に断髪令が布告された後も、マゲを落とすことに対する抵抗は大きく、日本中で騒動が起こりました。
今の人間から考えると、たかがちょんまげですが、身分や職業によって細分化されていて、当時の人々にとっては、自己の存在を示す精神的支柱にようなものになっていました。

明治6年、明治天皇がその趣旨を受け入れて、自ら断髪を宣言します。この頃から断髪への拒否反応は少なくなり、文明開化が民衆に受け入れられていくきっかけになりました。

 

奄美大島での断髪の騒ぎは、少し遅れてやってきます。大島の各地で断髪が本格的に行われたのは、明治9~10年頃のことですが、徳之島の亀津ではそれに先駆けて、断髪令発令の明治4年から明治8年ころまでに行われていたそうです。

亀津では明治5年に早くも民間の学校が設立されています。新しいものをすぐに取り入れ勉学に力を入れた、そういう進取の気風を表す象徴として建てたのが、この亀津断髪の碑です。

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亀津中学校の教育目標に、「『亀津断髪』『ヤンキチシキバン』の精神に学び・・」とあります。ちなみにヤンキチシキバン(ヤンキチバン?)とは、「屋根のキチが映るほどの水がゆをすすってもこどもには勉学をさせる」という意味だそうです。

 

 

徳之島代官所跡(亀津/徳之島町)

大瀬川の少し南側、海岸から山側に伸びる直線道路の突き当り近くに、代官所跡の案内があります。

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右に新しい説明板、左に少し古い銅板の説明板があります。

銅板の方は光が反射して、鏡のようになってしまっています。書いてある内容は、どちらも同じようです。

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慶長14年(1609)の秋徳の戦いの後、徳之島は薩摩藩の支配下に入り、7年後の元和2年(1616)に、初代代官が赴任しました。ここは、そのその代官所があった場所です。大仮屋、前仮屋などいくつかの建物が立ち並び、代官と補佐役、間切を司る島役人達が勤めていました。当時の代官の主な仕事は、島民から税を徴収して藩に納めることで、特に砂糖の総買入れ制のあとは、厳しく農民を取り締まっていました。

明治維新によって代官所は在番所となり、明治10年には、巡査派出所に変わりました。大正15年には徳之島警察署となりましたが、平成8年に移転して、現在は徳之島合同会館という建物が建っています。

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案内板は道路側にあるのですが、背を向けて建っているので、敷地内に入らないと読むことはできません。

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合同会館の前の道路です。仮屋の馬場といって、代官所の役人たちが乗馬訓練をする場所だったそうです。海岸の方に向けて。ほぼ一直線になっているのは、その名残でしょうか。

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亀津安住寺跡と亀津学士村(徳之島町)

亀津安住寺跡は、亀津市街を見下ろす崖の上にあります。

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徳之島最初の仏教系寺院で、徳之島の古記録「前録帳」には、元文元年(1738)に井之川に臨済宗安住寺が創建されて、全島民の宗旨が禅宗になったと書かれているそうです。安住時は延享元年(1744)に亀津村に移り、明和7年(1770)に伊仙町義和山に移され、天保3年(1832)には再び亀津へ移されています。


大島で、赤木名観音寺が役所の移転に合わせて、場所を変えていったのと何となく似ています。明治の廃仏毀釈によって廃寺となって、同じような運命を辿りました。尤も観音寺の方は、同じ禅宗でも曹洞宗で、こちらは臨済宗ですから、宗派が違います。

 

教育委員会の案内板の横には、石碑が建っています。

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安住寺跡 明治五年
全島學校教育濫觴之地
 昭和五十五年三月建立
 徳洲新聞社

「濫觴」とは、難しい字ですね。調べて見ると、「らんしょう」と読むらしいです。孔子のことばからとったもので、物事の始まりとか、起源とかの意味だそうです。昭和55年にもなって(それも新聞社が)、こんな難解な漢字を使っているのは、ちょっと珍しいですね。

それはともかく、
この安住寺の跡地を地元の有志達が買い取って、全島から子供たちを集めて、明治5年に簡易小学校を開設しました。これが亀津小学校に引き継がれ、徳之島での学校教育の始まりとなりました。後に帝国大学出身者を多く輩出するなど、「亀津学士村」と言われて、旺盛な向学心を育む原点になった場所でもあります。

碑の裏側に、その辺りの事情が書いてあるようですが、字が掠れてほとんど読み取れません。

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ここは亀津市街や海が一望できる場所です。

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すぐ隣の方は上殿地と呼ばれ、琉球支配時代からの役所がありました。海岸には蔵屋敷や郷士泊と呼ばれる施設があったそうです。


安住寺が最初に建立されたという井之川にも、県道のそばに井之川安住寺跡があって、案内板には亀津の方とほぼ同様のことが書いてあります。

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戸森の線刻画(西阿木名/天城町)

線刻画というのも珍しいので、ぜひ見てみたいと思っていました。メインの通り(県道)には何の案内もなく、かなり分かりづらかったのですが、脇道のようなところに入ってから、ようやく案内を見つけました。

樹木の間の細長い草地の中に小屋のようなものが建っています。

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手前に教育委員会の説明があります。

ここにあるような線刻画が刻まれた岩は、徳之島にはこれ以外に4カ所、国内では沖縄や北海道の洞窟で発見されていて、国外ではフィラデルフィア、スカンジナビア半島、バルチック海、デンマーク、スエーデン、アムール河流域、韓国などにもあるそうです。
この線刻画は、大正末期に発見されたもので、調査の結果、船や矢を線刻したのは、呪術的願望達成のためであり、時期はグスク時代、島人(秋利神川周辺の住人)が鉄利器を使って、線刻したものだろうということです。多くの船、矢が刻まれており、「アジア地域で始めての発見で、学術上極めて価値が高い」のだそうです。

 

早速、線刻画を見てみます。入口に近い方が第二線刻画です。保護のために小屋が組まれていて、格子状になっているところは、アシャゲっぽい感じがしないでもありません。

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岩の表面のアップです。素人には自然の傷かどうか判別しにくいのもありますが、中央にあるものなどは明らかに人間の手で刻まれたものですね。

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こちらは奥の方にある第一線刻画です。ちょっとスマートな形をしています。

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こちらは、船や矢の形がはっきりとわかります。写真だと少し薄いですが。

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この戸森の線刻画には磁気異常があるそうで、弓矢の上に方位磁石を置いたところ、45度も磁針が振れたという記録があります。私も試してみようと、格子の隙間から手を伸ばして磁石を差し出してみたのですが、残念ながら変化は確認できませんでした。

 

ここは二十一番拝所です。

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