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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

大和が沈んだのは徳之島沖?

<前回の続き>

 ところで、戦艦大和の慰霊塔がなぜ徳之島にあるのか、多少違和感があります。
沈没地点は北緯30度43分東経128度04分で、地図上でみると徳之島が1番近いというわけでもありません。

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どう見ても屋久島の西、徳之島から見るとかなり北の方になります。

『徳之島町誌』(S45.3.31刊)によると、戦艦大和は「徳之島の遙か西方海上で敵機延べ2000機及び潜水艦と交戦して魚雷を受けて撃沈した」とあって、徳之島の西の方で沈んだことになっています。

どうやらこれは、大和に乗り組んで沖縄特攻に参加し、奇跡的に救助された吉田満の『戦艦大和ノ最期』に書かれたのが、原典になっているようです。

『戦艦大和ノ最期』は、大和を記録したバイブルのような本らしいですが、最後の締めくくりは次のような文章で終わっています。

徳之島ノ北西二百海里ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何

ここには北西200海里とありますが、戦後すぐに書かれた初稿では「徳之島の西方」とあったそうです。

この沈没地点について、吉田満氏は島尾敏雄氏との対談の中で、次のように話しています。

駆逐艦に拾われて佐世保に帰ってから、海図に線を引いて沈没位置を推定すると、どうも徳之島が一番近いだろうという推定になった。戦後10年くらいして、それが事実なら徳之島として慰霊碑のようなものを建てたいという申し出があって、自衛隊で調べてもらったりしたが、水深が400mあって潮流も早く、水中聴音器の測定だけでは特定できなかった。徳之島伊仙町の町長が非常に熱心で、他に競争相手もいないから徳之島ということにしても間違いではないだろうということになり、政治家達が奔走して資金を集めて、犬田布に慰霊碑を造ることになった」※『特攻体験と戦後』(中央公論社)から要約

まあ、疑問はいくつかありますね。いくら何でも屋久島の西方と徳之島の西方を間違うものかどうか。それも佐世保まで戻ってから調べてますからね。大和の戦闘詳報には、北緯30度22分、東経128度04分とあって、現在分かっている地点よりは21分南側(40kmくらい)ですが、それでも屋久島よりは北側です。

その後の版でも、徳之島の北西沖となってますが、北西というよりはほとんど真北ですね。なぜこんなに不正確なものを書いたのか分かりませんが、多分、九州を出てすぐ沈んだというよりは、せめて沖縄近くの徳之島辺りまでは進んだことにしたかった(そう思いたかった)のではないかと推測していますが、どうでしょうか。

だけどそのおかげで、徳之島に、大和を慰霊するものが造られたのですから、結果的には良かったということだと思います。

 

戦艦大和慰霊塔(犬田布岬/伊仙町)

犬田布騒動記念碑から、さらに先の犬田布岬へ。突き当りの広い駐車場に着きます。駐車場から岬の先端に向かって遊歩道が延びています。

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ここからはまだ、戦艦大和の慰霊塔は見えません。

遊歩道を歩くと、波の砕ける音がだんだん大きくなってきて、やがて左前方、草原の向こうに慰霊塔が見えてきます。かなり大きいです。合掌する人の手に見えますね。

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右の方を見ると、岩壁に波が砕け散っています。雄大な景観です。犬田布岬は奄美十景の1つだそうです。

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周囲には錆びついた碇とか置かれています。左側の像はお地蔵さんです。「大和地蔵尊」とあります。ここは二十四番拝所でもあります。

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戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔」これがこの塔の正式名称のようです。宣仁親王の筆です。

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艦隊とは第二艦隊で、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦雪風、濱風、磯風、朝霜、霞、初霜、冬月、涼月です。風流な名前がついてますね。

 

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大和というと艦隊決戦を想定した大鑑巨砲主義の最後の名残りで、時代遅れの象徴のように言われています。

ミッドウエーやトラック島に出陣しますが、戦闘の機会なく、マリアナ沖でも活躍の舞台は与えられませんでした。レイテ沖では大和の同型艦武蔵は米軍航空機の集中攻撃を受けて沈没します。そして大和は、ここで空母部隊と遭遇し初めて敵の空母1隻(小型の護衛空母7800屯)を撃沈しますが、大和を旗艦とする栗田艦隊はレイテ湾を目前にして、「謎の反転」で突入を断念して空しく引き返します。巨大戦艦も、圧倒的な航空機兵力の前には無力でした。

昭和20年4月1日米軍が沖縄に上陸、4月5日大和に出撃命令が下ります。目的地は沖縄、片道分の燃料で特攻、浅瀬に乗り上げて砲台となれ」というものです。第二艦隊司令長官伊藤中将は当初作戦に反対しますが、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけになれ」ということばを聞いて出撃を決意します。

4月6日午後4時徳山沖から出撃、2時間後に甲板に集められた乗組員にこの出撃が生還を期さない「特攻」であることが告げられました。4月7日早朝8時15分米軍索敵機に発見されます。12時32分、米軍第1次攻撃隊100機が来襲、急降下爆撃を開始、12時45分魚雷1本が大和の左舷に命中。大和の対空砲火は厚い雲で照準を合わせられません。

13時34分雷撃機からの5本の魚雷が左舷に命中。左20度傾くが注排水システムでバランスを復元します。片側だけ狙う米機の巧妙な攻撃に、やがてシステムも限界に達し、平衡を取りもつことができなくなります。14時17分の魚雷命中で傾斜は急速に拡大し、長官は特攻作戦中止を命令。14時23分大和は大爆発して沈没します。

死者は3000人余り。大和の沈没は日本海軍の滅亡を象徴するものでした。

※参考『その時歴史が動いた「戦艦大和の悲劇」 』(NHK/2005年)

 

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碑には、「祖国を護る勇士よやすらかにお眠り下さい」と刻まれています。

 

犬田布騒動記念碑(伊仙町)

県道から戦艦大和慰霊碑がある犬田布岬に行く途中に「犬田布騒動記念碑」があります。騒動の犠牲者の子孫、親戚が、100年祭を記念して昭和39年に建立したものだそうです。右側の石柱には「二十五番拝所」とあります。

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記念碑からかなり離れた道路のそばに案内があります。

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犬田布の農民福重という人物が、上納する砂糖の見積り高が不足だという理由で、代官所の附役寺師次郎右衛門からきびしい取り調べを受けました。当時、薩摩藩は砂糖をすべて買い取っていて他へ販売することを禁じていました。高齢の福重がの身代りになって拷問を受けたのが為盛です。
これを知った農民たちは、日頃の苛酷な収奪に対する反感もあって怒りを爆発させます。元治元年(1864年)3月18日、為盛救出のために150年余りが団結して仮屋を包囲しました。寺師次郎右衛門は一旦は逃走しますが、島役人を集めて戦備を整えます。やがて農民側も団結が崩れて騒動は治まりました。首謀者6人が遠島処分になりましたが、この騒動の後、徳之島の砂糖取り締まりは緩和されるようになったそうです。


この太田布騒動は、徳之島の歴史上非常に重要な事件だったようで、徳之島の歴史や史跡についての案内やウエブサイトなどには、必ず出てきます。(資料によって少しずつ内容に違いがありますが、・・)

 

碑のすぐ近くにもう1つ「歴史の見直し」と題した案内板があって、そこには「義を篤く愛する勇気ある島民の行動を『騒動』とするのは公正さを欠く不適切な表現であり、薩摩侵攻400年の節目を機に名称を『犬田布義戦』と改める」などと書かれています。

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『大奄美史』(昇曙夢)にも、犬田布騒動の事が書かれていますが、ここでは「百姓一揆」という表現をしています。ちなみに、『大奄美史』では、騒動の年を文久2年(1862)3月としていて、現地案内とは2年の開きがあります。(他にも文久2年としている資料があります)。2通りの原典があるのでしょうか。

 

 

天城(アマングスク)遺跡(阿権/伊仙町)

阿権川の谷に架かる橋を渡ってすぐ、県道そばに天城(アマングスク)遺跡があります。
「町指定文化財史跡 アマングスク遺跡」と書かれています。

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上の方の登っていくと柵に囲まれた草地があります。

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岩が点在していますが、遺物が出土した場所と関係あるのかどうか分かりません。

説明版によると、
この遺跡は平成2年に発見され、平成5年の発掘調査の結果、縄文時代後期の嘉徳式土器と、奈良、平安時代と対応する兼久式土器の他、チャート製の石器が発見されたそうです。チャート製の石器は25000年前の旧石器時代のものと推定されています。徳之島は琉球列島のなかでも旧石器時代の遺跡が密集する地域として注目されているそうです。

 

嘉徳式土器とか兼久式土器は、出土した地名に由来していて、奄美大島の遺跡ではよく聞く名前です。「チャート製」というのが分からなかったのですが、調べて見ると、石器の素材になっている石のことで、大昔の放散虫という石英と同じシリカの殻を持ったプランクトンの死骸が、海底に降り積もってできた岩石だとのことです。

 

これが、25000年前の石器の写真です。ナイフとか包丁の役割をしていたのでしょうか、刃先が鋭そうです。

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遺跡のあるのは、阿権川流域の台地で、周囲に人家が見当たりませんが、古代人には住みやすい場所だったのかも知れません。

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