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「大奄美史」紀行

   奄美大島の史跡を訪ねます。

高千穂神社の境内社・護国神社(亀津/徳之島町)

高千穂神社の境内の鳥居の先の方に、もう1つの神社があります。鳥居は黒ずんでいて年代を感じさせます。

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これは高千穂神社の境内社・護国神社です。明治30年に建立されたもので、日清戦争以後の英霊を祀っています。

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護国神社は国家のために殉職した人の霊を祀る神社です。靖国神社の地方版のようなものでしょうか。全国にありますが、奄美でこの名称の神社を見るのは、これが初めてです。

 

大きな石碑が左右にあります。左の碑はかなり表面が傷んでいます。大正15年に建てられたもので、字はほとんど読めませんが、日清、日露の戦死者10名の戦士状況が書かれているそうです。最初の方に「明治二十八年・・・」と書かれているのが読めます。

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右は忠魂碑ですね。熊本第六師団長・明石元二郎中将の直筆だそうです。熊本第六師団は明治21年に編成された師団です。日清戦争では威海衛の戦いに、日露戦争では沙川会戦、奉天会戦に参戦しています。熊本、大分、宮崎、鹿児島出身の兵隊で組織したといいますから、この地域の人たちが出征したときは、第六師団に所属していたのでしょう。

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亀津・高千穂神社(徳之島町)

徳之島の神社の中でも、一番格式が高そうな神社ですね。鳥居の下は、普通に車や人がの通る生活道路です。

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二番目の鳥居から、かなり長い参道の石段を登ります。

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ここは三十三聖地旧跡の三十三番拝所。亀徳から島を1周して、ここが最後の拝所です。札所巡りだとここで結願ということになりますが、・・・。

この石柱が建っているのも見慣れた光景になりました。何か所に行ったのか数えてみると、多分ここで15か所目ですね。半分も行ってません。

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境内の社殿の前にに3つ目の鳥居があります。

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社殿の建物は、それほど大きくもなく、きらびやかさもありませんが、どことなく風格があります。

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狛犬の表情がちょっと変わってますね。

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この神社の由緒は境内の説明板に詳しく書かれています。
明治初めの政府の神仏分離令を受けて、廃仏稀釈運動が起こり、明治2年に高千穂神社が創建されたとあります。徳之島では、亀津、面縄、阿布木名の三ケ方に高千穂神社を鎮座して祭礼を執行したところ、仏教も次第に衰えて神道を信仰するようになったそうです。戦時中は出征兵士の武運長久を祈願する神社として信仰を集めました。明治以降の徳之島の信仰形成の流れを知る貴重なものとして、昭和51年に徳之島町指定文化財になっています。

菅原神社、松原神社も合祀されています。

神社庁HPによると、ご祭神は、
・天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)
・従五位陸奥守島津貴久公(ジュゴイムツノカミシマヅタカヒサコウ)
・菅原道真公(スガワラミチザネコウ)
だそうです。

島津貴久は戦国時代に薩摩を支配した島津家の15代当主ですね。島津の英主と言われた人物です。島津貴久は鹿児島の松原神社に祀られていますが、明治9年に、御分霊を勧請して高千穂神社の境内社としたそうです。

明治9年と言えば、西南戦争の前年ですね。わざわざそんな時期に島津家の神様を勧請してきたのは、どんないきさつがあったのでしょう。

菅原神社の方は安住寺跡に明治3年に創建されたものです。安住寺跡は徳之島の学校教育の始まりとなった小学校が創設された場所です。

トーチ墓と金毘羅神社(亀津/徳之島町)

「殿地墓・金毘羅神社入口」と書いた案内から、石垣の間の細い路地を抜けていくと、殿地(トーチ)墓のある場所に出ます。

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墓は何段かになっていて、上の方は草むらの中にいくつかの墓が点在しています。

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中段の辺りににあるのは、祠堂型墓、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですね。大島でも五輪塔は見かけますが、宝篋印塔を見るのは初めてです。享和、文化、天保などの元号が入っているそうです。

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この墓地は、代官本田孫次郎(文久元年1861没) も葬られていて、徳之島の墓地の中でも格式の高い墓地だそうです。どれが代官の墓なのかはよく分かりません。
本田孫次郎は、大島代官で「大島私考」を書いた本田孫九郎に名前がよく似ています。同じ一族なのでしょうか。


トーチ墓の奥から、山の上に入っていく道があり、途中にコンクリート製の鳥居が3基建っています。
これは参道入り口の最初の鳥居です。

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2番目の鳥居には昭和拾壱年と書いてあるのが読めます。

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3番目の鳥居の先は少し広くなっていて、こじんまりとした社殿があります。

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この辺りの地名は地元でコンピラサンと呼ばれていて、1659年の薩摩藩の検地のときに、金毘羅山と書き改めたそうです。だとすると、その頃にすでに金毘羅信仰があったということになります。
金毘羅さんは海上安全の神様ですから、ここで代官たちが航海の無事を祈ったものと思われます。

 

内部を少し拝見します。正面に3基の石碑が並んで建っています。文政年間(1818~1829)や文化15年(1818)の文字が刻まれているそうです。

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ところで、同じ亀津の街の1kmほど北側にある秋葉神社にも、金毘羅様が祀られています。どういう経緯で2か所にあるのか、何も説明がないので、よく分かりません。

 

金毘羅さんも祀る亀津の秋葉神社 (徳之島町)

亀津市街地の北の方、山際の道路沿いに、秋葉神社の鳥居と参道の石段があります。

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案内によると、この神社の場所に、文化元年(1804)に讃岐の金毘羅宮の祭神大物主命(おおものぬしのみこと)と崇徳天皇を勧請して神殿を建てたとの文献があるそうです。
江戸時代に火伏の神である秋葉権現が信仰されて、遠州の秋葉参りが盛んに行われていたそうで、秋葉山本宮秋葉神社から分祀された火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオカミ)も祀られるようになったといいます。こちらの方が神社の名前になったようですが、年代は不詳です。


参道の階段上っていくと境内の広場があり、社殿は少し上です。

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内部はかなりごちゃごちゃした感じです。
中央に天照大御神、左に金毘羅宮、右に火之迦具土大神が合祀されているそうです。

左に金毘羅宮のお札が見えます。右に光背が炎の形の木彫りの板がありますが、これが火之迦具土大神を表しているのでしょうか。

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社殿の右側には、かなり年代物の石碑が3基並んでいます。

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1つは、文政9年(1826)に建てられたものです。「文政8年に島津家の殿様達のお祝いがあって、島役人(與人)の喜美實という人が、上国した時の記念に山川から持ち帰って寄進した」というような意味のことが(多分)書かれているようです。